山萩
今年の秋は精力的に頑張ろうと、常に自分を鼓舞していたので心身ともに厳しい日が続いた。
その状況下で私を何よりも癒してくれたのは、家の裏の山を飛び回るキチョウだった。
毎日、5〜7頭ほどのキチョウが日中ふわふわと飛んでいる姿がとても可愛らしく、窓からその光景が見える度に良い気分になった。このキチョウはどこから来るのだろうと疑問に思っていると、いつのまにか家と山との境に山萩が生え、小さい花をいくつも咲かせていた。ここが彼らの拠点だったようだ。
双眼鏡で、山萩をじっくり観察するとたくさんのサナギや芋虫がついていた。なぜなのだろう?と思い調べてみると、山萩はキチョウにとって食用の葉だったらしい。キチョウは成虫であれば冬を越えるとも書いてある検索結果もあって、これから暫く彼らと一緒に過ごすことができるのだと心から嬉しくなった。
でも、それは叶わなかった。ある日、ジョロウグモが山萩と隣の木を繋いで、大きな巣を作ってしまい、キチョウは成虫もサナギも幼虫も全て食べられてしまった。その日からキチョウが窓の外を飛ぶことはなかった。
私は大きなショックを受けていた。満足そうにぶら下がっている蜘蛛が許せなかった。その時はあの場所に蜘蛛が巣を作るのはあまりにも合理的だから仕方ないと諦めたが更にショックなことが起きた。
山萩が切り倒された。といっても我が家の大家さんはとても良い方で、よく草刈りをしてくれるのだが、その一環で刈られたというだけなのでこれも仕方がなかった。山萩が刈られた後、蜘蛛が少し不服そうに巣を縮めて、違う羽虫を食べていた。
山萩がなくなり、キチョウは飛ばなくなった。
平家物語の冒頭の「諸行無常の〜」の部分が好きなのだが、このエピソードはまさに平家物語の冒頭を体現していると思った。
諸行無常の理に逆らう気はないけれど、私は傲慢だからもしここが私の土地だったら、山萩を植え替えたら、その結果冬を越えて飛んでいたかも、山萩は来年も残っていたかも、などとずっと考えてしまう。
そもそも、キチョウが飛び回る姿を美しいと思えることだって贅沢かもしれない。心身ともに健康で、大きな悩みがあったりせず、明日生きることの心配をしなくて良いから能天気に生き物を愛れるのかもしれない。今の時代、キチョウを普通に慈しむことでさえ、難しい。
私の人生は本当のところ、野生の生き物が伸び伸びと生きている姿を見ていればそれだけで満足だ。けれど人間社会で生きていると見た目や、年収、仕事、人との関わりを維持しないと、生き物を純粋に楽しく愛でることが難しいので、毎日虚栄を積み重ね、人間として努力して生きている。
早く庭に山萩を植えて、キチョウを見て癒される日々を送りたい。そのために毎日を頑張っている。
※山萩やキチョウの写真は住居の場所が分からないように、会員になっている素材サイトさんよりダウンロードして使用しています。