【徳島の右下生活】#41日目 存在意義
「知性」は言語化能力だけではない。いろんな能力を包含する。
とは言え、こうして文字に起こしたり、考えたりする手段はやはり「言葉」な訳である。仏陀やイエスはこの言語ではない何かを感じ取ったのではないか。それは「知性」であり、「悟り」でもあるのだろうか。俺が感じようとしてるのも悟りかな。自身に宿る絶対感は自分以外に伝わらなければ存在しないのと同じ。でもそれだと相対になる。こうしてぐるぐる考えるのも虚しくなる。虚無主義。ニヒリズムとでも言うのかな。
結局俺たちは何のために生きてるのだろうか。
草抜きだけで充分かもしれない。
高:29℃ 低:24℃ 曇時々雨
AM8:00~12:00 お寺バイト 草抜き
4時間草抜きすれば人生変わる・2
最初は汚れないように挑むんだけど、次第に汗もかくし、腕も汚れるし、膝もついて汚れなんて気にしなくなる。というか、汚れではない。ただの砂や砂利や草。汚れって認識するから汚れになるだけ。だんだんと草抜きする地面と一体になる感覚。水の多い絵の具を紙に落とすと繊維に馴染んでいくような感覚。絵の具か紙か水か何かわからないけどそこにいていい。いいとか悪いではない、唯在るだけ。言葉にする知性しか持たないし、言葉にしても稚拙になるだけで、それならこの身体の中に留めておくだけでいいんじゃないかな。そしたら自分の存在意義なんて求めなくてもいいってことだよね。
俺たち悩ましい世代。地球が滅びに向かってると認識されてる最中に生まれ、AI・テクノロジーが発達し人としての在るべき姿を考え、しかも、考えられる環境とテクノロジーが存在する。しかし、それより上の世代はその生き方をしてきてないから教わることはできない。ロシアウクライナの戦争があるにしろこうして、衣食住には困らず、教育も情報もたくさん受けられる。それ故に見えてくる自己と他者。今で充分なのに、無常な世の中、変わり続ける。さて、どう生きよう。
生きるとはそもそも何だろうか。
PM15:00~17:00 読書 “沈黙”
信仰と命
教科書で習った踏み絵。習った当時は、「ふ~ん」ぐらい。自分が命よりも大事にしている信仰の象徴を足にかけることの重みを想像もできずにいた。今でもその気持ちは完璧には分からない。
ポルトガルから来た司祭は日本の奉公人に踏み絵を命じられる。その裏では「穴吊り」が行われ、死よりも辛い思いをしてる日本人信徒が。司祭はそれを知り、先に転んでたポルトガル司祭に説得される。結局は自分が救われたいだけ。「転ばない」、祈り続ければ日本人信徒もいつか救われると信じたい、「転ばない自分でいたい」、祈り続けたから転ばなかったから信じ続けたから。それで人の命が落とされてるとしたらどうだ。転ばないことが正か。祈り続けることが日本人信徒の救いになるのか。日本人信徒を言い訳に自分が転びたくない、転んで迫害されるのが嫌なだけではないか。
肉体的、精神的に追い込まれると視野も狭まり、冷静さも欠いて合理的判断もできない。他人への思いやりも当然持てない。その危険性は人間だれしも持ってる。自分がそうなったとき、仮に指摘されたとして冷静でいられるだろうか。火に油じゃないか。言ってあげるのが優しさだろうか。
偏った信仰は偏った時点で誰も救わず、しかし、人々の拠り所となる側面も持ち合わせている。一人一人がそれぞれの拠り所を持てればなと、つくづく思う。草抜きしよ、みんなで。