盲目
覆い被さる男の首元から滾滾と流れる血は、上の着ている白い服を瞬く間に蘇芳色へ染めてしまった。はくりと男の口が動き、言葉にならない喃語のようなことを、2、3ほど言った後で男の目がどろりと濁る。元から輝きなど殆どない瞳であったが、それでも生きている人間ならば最低限は持っている光も失せて、穴蔵のような暗闇が瞳にじわりと広がった。ぐらりと身体が揺れ、男が俺の上に倒れ込んでくる。男からはまだ溢れる血が、ぐちゃりと嫌な音を立てた。男の下でつっかえるような呼吸をする俺は、震える手で男の体をずらし、ゆっくりと起き上がる。既に事切れた男を見開いた目で見つめる。つっかえるような呼吸は荒い息に代わり、俺は正しい呼吸の仕方を忘れてしまった。その時、カランと何か金属のようなものが落ちた音がする。音のする方に俺は目線を動かせば、それは俺の手から滑り落ちたナイフだった。べっとりと血のついたナイフを見た瞬間、俺は堪えきれず嘔吐した。饐えた匂いが部屋に広がった。そして俺はこの時この男を殺したのだと、覆らない事実を受け止めた。
この日初めて俺は、ヒトヲコロシタ。
今日俺は家で彼の帰りを待っていた。普段であれば、時短勤務をしている彼は俺が仕事が終わり帰る時間までに家に帰ってきている。しかし、今日は仕事上のトラブルでどうしても時間通りに帰ることができず、俺は1人で留守番することになった。俺はテレビを見ながらあいつの帰りを待っていると、インターホンが鳴った。彼であれば鍵を開けて自分で入ってくるはずだ。誰だろうと思い、俺は画面越しに映る人物を見ると、荷物を持った宅配便の男だった。荷物の受け取りをしてほしい、と言う男の言葉に俺は戸惑った。俺はあいつから「自分が帰るまで誰も家に人を入れるな。」とキツく言いつけられている。しかし俺は、もう大人だ。彼の心配性ながらの言葉を無視して、ドアを開けてしまった。そして、迎え入れた男に襲われた。ナイフを俺に突きつけた男は、俺を押し倒して事に及ぼうとした。細い体を弄り、よう口を合わせる男に恐怖した。〝気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い!〟それだけが俺の頭の中にリフレインする。思わず俺はあいつの名前を叫んで助けを求めれば、男は俺の頬を殴り、静かにしろと怒鳴りつけた。頬の痛みに呆然として見上げる俺に、男は満足そうな顔をする。そして、俺を詰るような言葉を男はベラベラと喋り始めた。男は動きを止めている。その時、俺の目に、男が置いたままにしているナイフが写った。
「…じゅり?」
その声に俺は体をビクリと跳ねらせた。顔あげれば、助けを求めた彼が呆然とそこに立っている。自分の罪を見られたのだ、そう理解した俺は一筋の涙を零した。その涙を見た彼は、時を取り戻したかのように動き出し、俺の前に跪く。
「…っ、樹!怪我は?!」
ボロボロと涙を流しなから、ゆっくりと頭を振れば、彼は安増したように息をつき、俺のことを殊更優しく抱きしめた。
「大丈夫、大丈夫だよ。怖かったよな、でももう俺がいるから安心して。もう、怖いことなんてないよ。」『…… なぁ、お、俺……、ひ、ヒト、人殺しちゃった。』
「うんうん、大丈夫、大丈夫。」
『け、っけ、警察に言わないと、』
「…ん?何で?」
彼が心底不思議そうな声を上げる。理解できない、とでも言うように吐き出された言葉に俺は動きを止めた。彼は俺を安心させるためなのか、微笑みを浮かべていた。でも、その微笑みは俺にとって何故か恐ろしく感じた。
「じゅりぃ、大丈夫だよ。あれは、俺が処理しておくから。死体がなければ、分からないよ。樹が心配することは無いよ。」
『で、でもさ!俺が、俺が殺したんだよ?』
「…それが何か問題にあたるの?」
不思議そうに首を傾げる彼を見て、その大きな達和感に言葉を失った。そんな俺の様子に気づかず、彼は俺へ微笑みかける。
「樹を傷つけたやつなんだ、死んで当然だろ?後は、俺がアレを片付ければ良いだけの話。だーいじょうぶ、バラして一部分ずつミキサーにでもかければ排水溝に流れるよ。そうすれば、一生見つかんない。樹は警察に行く必要なんてなーいの。」
彼は酷く優しい目をして俺を見ているはずなのに、俺はそんな彼が何よりも恐ろしく感じた。