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片付いて、散らかって、かき混ざる

片付けが苦手だ。

部屋が汚くて落ち着かないなぁ、と思いつつ
今日こそやろう、明日こそやろう、と思いつつ
めんどくさくて後回しにしてしまう。

そんなわたしでも、片付けられる方法がある。
それは、「人を家に呼ぶ」ことだ。
誰かが家に来るのなら、いくらなんでもさすがに片付ける。
さすがに片付けるけど、それでもほんとーーーにギリギリまでやらない。

最近、久々に人を家に呼んだので
重すぎる腰をあげて、半日かけてなんとか片付けた。
あー、スッキリ!!

でもまあ、これはとりあえずのお片付けだ。
机の上に乱雑に置かれたものをロフトに移動するだけ、という荒技も使った。
見える範囲のみ、キレイになったように見せているだけだ。(えっへん)

ロフトの上とか紙袋の中とか、とりあえず突っ込んだだけの範囲は「あとでやろう」ということにしている。そして、その「あとで」はいつまでも来ないことも知っている。
それでも、未来の自分に期待しているというか、責任を押し付けているというか…。
いつかは、次こそは、もっと徹底的にお片付けをして快適な日々を送るのだ!
…とまぁ、意気込みだけはいっちょまえだ。

でも、とりあえずのお片付けでも、しないよりは全然マシだ。
見た目がキレイになって気持ちいいのはもちろんのこと、「めんどくさがって後回しにしていたお片付けを成し遂げることができた」という事実に、自己肯定感がちょっと高まる。

(この喜びを味わってもなお、きっとまたどんどんと散らかって、「めんどくさい」となってしまうのだから恐ろしい。)

人を家に呼ばなければ、こんなに心地のいい状態の我が家を見ることはなかったと思う。

他者と関わることによって、自分ひとりでは生まれなかったものが生まれる。
それは「人を出迎えるときの片付いた部屋」もそうだし、「人が帰ったあとの散らかった部屋」もまたそうだ。
散乱したUNO、食べかけのお菓子、使い終わった食器…などなど。
自分の部屋は、ひとりで生活しているときとはまた違った表情を見せる。

パーティー跡地

これは、人が来る前や帰ったあとだけの話ではない。人が来ている最中もそうだ。
部屋に人がひとり増えるだけで、部屋の空気感はガラッと変わる。
いつも見慣れている景色が、違ったように見えるのだから不思議だ。

こうやって、人を家に呼ぶことによって
片付けることができたり、いつもとは違う部屋の空気感を味わえたり、自分の意図せぬ散らかり方をするのがおもしろい。

人と関わる醍醐味は、きっとこういうところだなぁと思う。
自分とその人じゃないと作れない「部屋の状態」は、もはや作品と呼んでもいいのかもしれない。

物が移動しまくって、停滞していた自分の部屋に動きが出る。予想もつかなかった形になる。
そういう循環が、家にある物たちにとっての空気の入れ替えになってるような気がする。
今まで息詰まっていた物たちが、「やっと呼吸ができた…!」と言っているような感覚。

自分自身にとっても、人との関わりでしか生まれなかった自分を発見できることがうれしい。

使うこと、動くこと、かき混ぜること。
人も物もこの繰り返しによって、生き生きとするんじゃないだろうか。

これからもたまに人を家に呼んで、自分の部屋をかき混ぜてあげよう。
きっとそのほうが、部屋もわたしも喜ぶから。


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