180124 ラッパ屋『父の黒歴史』@紀伊国屋ホール

『恋と音楽』『サクラパパオー』の脚本家・鈴木聡さんの本公演を観るべく初ラッパ屋、初紀伊国屋ホールで『父の黒歴史』を観劇してきました。
普段何気なく利用する新宿・紀伊国屋書店の4階、エレベーターを降りて左折するとすぐに劇場の入口があって、こんなところに劇場があったことにびっくり。
客層は圧倒的にお父さんお母さん世代といったかんじで、演者の方々もそこと同世代が多く、年代で区切ると自分は圧倒的に少数派だったと思う。
当日引き換えのエコノミー席(なんとたったの3000円!)で観劇。席は一番後ろ、前の席の人と頭の位置がかぶったりしたけど、センターブロックで見切れはなく。幕間なしの2時間。舞台幅そのまま縦に伸びる客席がパルコ劇場を思い出して懐かしかった。

時代は現代、蚊帳なし。セットは下手に縁側と座椅子、真ん中にソファとテーブル、その後ろに扉、上手には屋敷の奥につながる廊下と階段と扉、レトロな屋敷のリビングといった感じ。転換なし。
話の中心人物は、90歳のおじいちゃん。100円ライターで一発当てて今や資産家。戦後の昭和を生き抜いてきたおじいちゃん、愛人の子が8人もいて生粋の愛煙家、家族に黙って家族以外の人と手を組み選挙への出馬を勝手に進めるという、「不倫」「喫煙」「政治」「老害」と、このご時世炎上の火種になり得る要素がずらりと取り揃えられているけど、憎みきれずに愛らしさが勝つのはさすが鈴木聡さんです。

いわゆる「老害」にありがちな昭和賛歌とセットの平成下げや、過去の武勇伝トークなんかから連想されるのはバブル、高度経済成長期の時代を指すことが多いけど、この作品のおじいちゃん(表題は“父”だけど私にとっては“おじいちゃん”だった)にとっての昭和は、「戦争」が日常にあった時代も含まれている。明治・昭和・平成を跨いで次の年号にも爪先を引っかけているおじいちゃんは、劇の前半に「私は理不尽を愛している」と説く。
「昔は良かった」って文句は現実世界で耳にタコが出来るほど聞いてきたし、平成に生まれ現代を愛し未来の不安を抱く私にはその言葉への反発は人波にある。ゆとり世代でもあるので。でも、作中で話されるおじいちゃんの考えは今まで聞いてきたそれとは少し角度が違っていた。

物語の最後、庭の雑木林が全て取り払われていた。雑多に見えて年に一度は必ず手入れされていた雑木林は、愛人の娘息子が1つ屋根の下で共存し合う異質な家族形態の表れだった。一見雑多な雑木林の手入れを欠かさずに行ってきたおじいちゃん。それはおじいちゃんなりの「ケジメ」だった。おじいちゃんが愛していた昭和の「理不尽」は、「責任」がセットになっていた。

家族だからといって絶対一緒にいる必要なんかないけど、何だかんだみんなおじいちゃんを愛していた。母親が違う娘たちはおじいちゃんのことを「自分だけの父親じゃなかったから遠い人のようで、まるで片想いしているみたいだった」と例えていたのが印象的だった。

家族に限らず、部活で後輩に、仕事で新人に教えるときにも共通で、手間を掛けてもらったことって相手は結構覚えているんじゃないかな。手間は必ず行動を伴う。おじいちゃんは全員の子供を認知して、誕生日には必ず皆で集まってお祝いをし、遺産は皆に平等に分け与え、娘たちの理想の片想いの相手で在り続けた。行動を起こさずして手間は生まれない。手間は体感出来る、目に見える愛なのかもしれない。
手間だけが愛の全てではないけど、手間という1つの愛が姿をなくそうとしていることに大人は寂しがっているのかもしれない。そんな風に考えると、「昔はよかった」と唱える大人の気持ちが想像しやすくなった気がする。

終演後、ロビーにいらした鈴木聡さんとお話させて貰った。サクラパパオーを観て今回の観劇に至ったことをお話したら、「あっち(サクラパパオー)と全然違うでしょ」と言われたけど、私はそうは思わなかった。『父の黒歴史』のおじいちゃんと『サクラパパオー』の奥さんと愛人を置いて亡くなってしまった競馬好きなヒロくんはよく似ている。ルールを破ってマナーを守る人。鈴木聡さんが描く理想の昭和の男性像なのかな。『サクラパパオー』も『父の黒歴史』も、貫き通すことの美学を感じた。

歴史の長い劇団なので、ふらっときた世代の違う自分にはついていけないかも…なんて不安もあったけど、杞憂でした。チケットを持って身一つで客席に腰を下ろすだけで、素敵な時間を過ごさせて貰いました。またどこかでお会い出来たらいいな。観れてよかったです。

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