赤信号
僕の家から学校に行くまでには、ひとつの信号がある。そこを渡ってしまえばあとは一本道。家も学校も田舎にあるから、信号は押しボタン式だった。ボタンを押してしばらくすれば信号は青に変わり、学校に行くことができる。
でも、僕は今日もこのボタンが押せないんだ。
「海里、起きたの?」
ピピピピ、という目覚まし時計のアラーム音とほぼ同時に1階から母さんの声が聞こえた。パチンと時計を上から叩くと、暖かい布団の中から頭だけ出して起きてるよ、とだけ返事をする。
芝浦海里、18歳。今年から大学生。
春と夏と秋が瞬く間に通り過ぎて、今にも雪が降りそうな空模様が窓から見えた。今日も空は機嫌が悪そうだ。
もぞもぞと布団から這い出て、ひとつ大きなあくびをする。長く伸びた前髪が目に入って痛い。目を擦ると、右手が少し涙で濡れた。
「おはよ」
パジャマのまま階段を降りると、母さんが朝食の準備をしていた。
「おはよう、海里。今日は、学校行けそう?」
「うん……」
目を合わせないように朝食の準備がされた机の前の椅子に座る。
僕が学校に行けなくなったのは夏休みが終わってからのことだった。大学生にもなっていじめがあるわけでもないし、朝が弱いわけでもない。先生はみんな優しいし、友達もたくさんいる。
でも、学校に行けない。それは、僕にも理由がわからなかった。理由もないのに、どうしても学校に行けない。
最近では母さんも無理強いして学校に行かせるようなことはしなくなった。最初の頃こそ心配して影で泣いてたけど、最近じゃ僕の前では笑うようになった。それも心配ではあるんだけど。
「春臣くん、今日はこないのね」
母さんがふと僕の幼馴染の名前を出した。
古川春臣。僕と同じ18歳で、違う大学に通っている。
「毎日はこないでしょ。忙しいんじゃない、春臣くんも」
そう、と言うと母さんはフライパンのほうに向き直る。食パンをかじると、ママレードの苦い味が口いっぱいに広がった。
朝食を食べ終わると、僕の部屋がある2階に上がり、着替え終わると机の上に置かれた時間割に目を通した。リュックに教科書とペンケースを詰める。
今日こそ、行ける。そう自分に言い聞かせてガチャリと家のドアを開けた。目の前には、まっすぐ道路が伸びていた。
しばらく歩くと、横断歩道が見えた。押しボタン式だから、案の定信号は赤だった。車は次から次へと僕の目の前を通り過ぎる。呻るようなエンジン音が、右から左へと流れていった。
横断歩道を前にして、ボタンを見つめる。ゆっくりと指をボタンのほうに伸ばす。その指が震えていることが自分でもわかった。静かに早くなる呼吸の音が耳に入った。どくん、どくんと心臓の音まで早くなる。
どうした、早く行け。ここで止まってる時間はない。そう思うに連れて、呼吸はどんどん早くなっていく。目の前が、霞んで見えた。胸のあたりを強く掴むと、セーターがぐちゃりと歪んだ。
僕の後ろから来た女子学生が、心配そうな顔をしていた。
「だ、大丈夫ですか?」
「あ、大丈夫……です。すみません」
息も切れ切れにそう返事をする。女子学生が友達と思われるもうひとりの女子とひそひそと囁きながら僕の前を通り過ぎた。また、迷惑をかけている。もう、嫌なんだこんな自分は。
そう考えるたびにどんどん呼吸の数が多くなる。僕は別に病弱なわけではない。この場所に、トラウマがあるわけでもない。それなのに、何故。わからないんだ、自分が。
でも、やっぱり今日はダメだ。ズボンのポケットから携帯電話を引っ張り出す。画面をタップして母さんの番号にかける。2、3回コール音がなったけど出ない。その時、ふっと意識が遠のいた。狭くなっていく視界の端で、見慣れた学生の姿が映った。
目が覚めたら自分の布団の上だった。上半身を起こし窓のほうを見ると、沈む直前だった太陽が頭だけのぞかせていた。
「あれ、僕は……」
そうだ。横断歩道の前で倒れたんだ。これで、何回目だろう。今回は、誰に迷惑をかけたんだろう。
その時、階段を駆け上がるどたどたとした音が耳に入った。母さんとは違う、この騒がしい音は……。
「かーいーり!!」
「……春臣くん」
声の主は、幼馴染の春臣くんだった。赤い短髪を揺らして僕のほうへ駆け寄る。
「海里ー、また倒れたんだって?」
「うん、まあ……」
気まずそうに目をそらすと、ずいっと僕の視界に入るように春臣くんが顔を寄せてくる。
「もー、心配させんなよな!」
そういって僕の頬をぐいっと押す。ごめん、と謝ると俺に謝ることじゃねーぞ、と返してきた。
「それにしても、なんで学校いけないんだろーなあ」
「……信号が、赤なんだもん」
「そんなの、ボタン押せば青に変わるじゃん!」
「そうなんだけど……」
春臣くんが床であぐらをかいて、僕のほうを不審そうな目で見ている。
「まあ、ゆっくり頑張ればいんじゃね? 俺も協力するし!」
「……ありがと、春臣くん」
僕は、今日も押しボタンが押せない。信号はいつまでたっても赤のままで、僕はいつまでたっても前に進めない。
僕は、赤に溺れている。