青信号
その日から、本当に春臣くんは来なくなった。僕はまだ大学には行けず、退屈な毎日を送っていた。母さんはご飯の時以外声をかけなくなった。僕以外誰もいないこの部屋で、僕はひとりぼっちだった。
退屈な毎日の中で、僕はいろいろ考えていた。大学のこと、母さんのこと、そして、春臣くんのこと。最後に見たあの赤い髪が、脳裏から離れない。信号の赤に目が眩んだように、あの赤い髪も眩しかった。どうしようもなく、眩しかったんだ。
「海里」
トントン、とドアを叩く音がして、同時に母さんの声が聞こえた。
「はいるよ?」
「うん」
ガチャリと開いたドアの向こうに、母さんがいた。なんだか少し痩せたような気がした。
「起きてた?」
「……うん」
「母さんも隣、座っていい?」
「……うん」
布団の上で座る僕はすこし右にずれ、母さんの座る場所を作った。そこに母さんがゆっくりと座った。
「春臣くんと、喧嘩でもした?」
「そんなんじゃ、ないよ」
喧嘩なんてしてない。ただ……。
「僕が言いすぎたんだ」
言いすぎた。僕のためを思って行動してくれた春臣くんに向かって、迷惑だと言ってしまった。ほんとはそんなことないのに、なぜか口が勝手に動いた。
「謝らないの?」
春臣くんの家は僕の家の3軒隣だった。行こうと思えばすぐに行けたし、会うことなんて簡単だった。
「謝らなきゃいけない、とは思ってる」
謝りたい。ずっとそう思ってる。謝らなきゃ。言いすぎた僕のせいなんだから、僕から謝らなきゃ。
ピピピピ、と7時のアラームが鳴ったのを聞いて、軽く上から叩く。時計はそれきり静かになった。
はじめて信号の前で倒れた時、だれに助けてもらったのかは覚えてないけど目を開けると心配そうな春臣くんの顔があったことを覚えてる。いつも明るいはずの春臣くんがすごく険しい顔をしてた。
大学は入ってからずっと会ってなかった春臣くんの顔は、少し凛々しくなっていて、髪なんて真っ赤に染めちゃって、それがなんだかおかしくて笑っちゃった。
久々に会えて、嬉しかった。家は近いのになかなかタイミングが合わなくて、ずっと会ってなかった。だから、顔を見た時すごく嬉しかった。俺は心配してるんだぞ、なんて言われたけど、緩みきった顔はなかなかなおらなかった。
それから、度々倒れては、春臣くんが心配そうに僕のところにやってきた。忙しそうなのに、倒れた後数日は毎日僕のところに来てくれた。まだ大学には行けないけど、それでも楽しかった。
「謝らなきゃ」
パッと顔をあげるとびっくりしたのか母さんが少し驚いた顔をした。そのあとゆっくり僕の方を向いて、微笑んだ。
「それじゃ、早く着替えなきゃね」
母さんはそう言うと布団の上から立ち上がり、ドアの方へ向かった。
「朝食作ってあるから、用意できたら降りてきて」
「……うん、ありがと」
僕は大急ぎで身支度をした。リュックに机の上のものを詰めて、階段を急ぎ足で降りる。
キッチンへ行くと、いつものように朝食が並べられている。バターののった食パンをかじると、母さんが僕の方をみてゆっくり食べな、と言ってくれた。
朝食を食べ終わり、そろそろ出ようとした時、家の外がなにかざわざわと煩かった。そんなことどうでもいい、とドアを開ける。いってきます、と叫びドアの外を見ると、そこには……。
「え、春臣くん?」
「海里」
そこには、春臣くんと、僕と同じ学部の同級生が、数人いた。
「みんな、なんで……」
どうしてここにいるんだろう。見慣れた顔が、嬉しそうにこっちを見ていた。
「なんかこの赤い髪の人が海里を学校に連れて来たいから協力して欲しいって」
「どうしてもって、聞かなくて」
「俺たちも、海里のこと心配だったしさ」
口々にそう言うのを聞き、春臣くんの方を見ると、少し顔を赤くさせていた。
「やっぱり、放って置けなかったんだよ」
「俺が言うより、同じ学校の友達が来てくれた方が海里も嬉しいと思って」
そこまで言って、春臣くんが口をつぐむ。その顔を見て、なぜだか無性に泣きたくなった。春臣くんごめん、と小さく呟くと、春臣くんが僕の肩を軽く叩いた。大学の友達も、みんな嬉しそうな顔をしていた。
「僕、大学、行くよ」
「ほんとに?」
春臣くんがびっくりしたように声を上げた。
それから、みんなで信号のところまで歩いた。誰も何も言わなかった。僕も何もしゃべらなかった。
相変わらず視界はぼやけていたけど、押してください、の文字が目に入る。震える指で押ボタンを押すと、カチッと音が鳴り、お待ちください、という文字に変わった。
ドキドキしながら待っていると、信号は青に変わり、視界いっぱいに青が広がった。
春臣くんが僕の背中を少し押すと、僕は反射的に一歩前に出た。
横断歩道に足を踏み出す自分の足を見て、目がじんわりと熱くなった。
赤に溺れた世界はもうない。
真っ赤だった世界が、青に染まった。