見出し画像

前髪切ったことにもきづいてほしかった

じぶんの名前を呼ばれていることに気付くまで数秒かかった。声は聞こえていたのに、ことばは聞こえていたのに、その単語の意味を理解するのにぼくの頭のなかにあるグーグルで検索してから検索結果がでるまでがやけに遅かった。この速度を単純にぼくの持っている脳内のノートパソコンのスペックだと仮定すると、とりあえずデータの整理すらせずに電気屋に走るな、と思った。
一度失敗したらおわりなのだろうか? もうがんばることすらさせてもらえないのだろうか? 失敗は人間で言うところの死なのだろうか? そのあと、ぼくはどうしたらいいのだろうか?

君の声が聞こえたのは幻聴かもしれない。たぶん、思いすぎているぼくの脳内がつくったありもしない思い出。雨が降ったあの日、ひとりぼっちのぼくをかわいそがってか雨が声をかけてくれたのに、ぼくはそんなもの耳に入れる価値もないと思った。今になってごめんなんて言ったところで、なんだけれど。
覚えていたのは小さな石の置物。置物といっても、かえるの形をしているこれは水飲み場であるから置物以上の価値がある。それなのに、この小さなかえるは毎日毎日ここでひとりで、雨に晒されても誰も拭いてくれやしないし、カビのようななにかのせいで本来のかえるの色を取り戻しつつあるし。何も必要としないこのかえるは、体内に水だけが通っているこのかえるは、悲しいなんて思うのだろうか。成人済みであることを願って、左手に持っていた袋の中からストロングゼロを取り出しかえるの右手の付近に置いた。可哀想なんて思わないし、この笑顔を絶やさない顔をかわいいとも思わなかった。そういえばかえるなのだから雨のことを歓迎しているのかもしれない。ぼくとは大違いだ。家に帰ってから、あの微動だにしないかえるにストロングゼロを祀ったことを後悔した。いちばんすきなのをあげる必要なんてなかったかもしれない。

じぶんの名前を呼ばれていることに気付くまで数秒かかった。脳も耳もいやになるほど病とはほど遠い。だけどその時だけ聞こえなかった。音が発された瞬間に聞くことが出来なかった。そんな不出来なぼくすら、ぼくである証かもしれない。
前髪切ったことにもきづいてほしかった。熱があったって、ぼくはきっとぼくのままだ。

#小説 #短編