応答せよ太陽


ドアを開けて家を出ると真っ赤な太陽が僕の剥き出しの両腕を焼いた。痛い。久しぶりの感覚に家に戻りたくなった。いつの日か右の二の腕に刻んだ青いバラが皮膚とともに少し変色していた。そのバラが形を成したその日から、すごく汚いものだと思っていた。今見ても、本当に汚い。自分で自分を否定するようなその青いバラ。こちらを見ては責めてくる。なんでこんなものをいれてしまったのか、そう己に問いかけてみても当時の僕は返事をしない。もう忘れてしまったことは思い出せない。過去のことは思い出にすらならない。底の平べったいサンダルが煙を出しながら項垂れているセメントを踏んで、一歩一歩と前に進む。薄すぎるそのゴムをセメントとの間に挟んでみたところで熱は足を伝って体をじわじわと焼く。僕が住む耐震整備の整ってなさそうなアパートの3つ隣の白い壁の家の中から、怒りを纏ったような声が聞こえた。僕が前を通るたびに吠えるこの犬は僕にどんな恨みがあるんだろう。頭上から降ってくる熱に浮かされた頭で振り返ってみた。そういえば、一人だと吠えるのに、あいつが一緒だと大人しくしていたような、していないような。まあいいか。僕は早く家に帰りたいんだ。耳に届くその怒鳴り声を無理矢理ふるって、足を進めた。8月。曜日の感覚すら既に掴めなくなったけどこの日だけは忘れない。いや、忘れさせてくれない。足の長さよりも丈の長い、2日も洗濯していないジャージのポケットからくしゃくしゃになった煙草の箱を取り出した。赤いアクセントのあるパッケージを見て、ここにもいたか太陽、と恨めしい気分になった。

そういえば太陽みたいなやつだった。いつも熱くて周りのみんなも暑苦しそうで、でもなんだかんだ楽しそうだった。僕はそもそも夏が嫌いじゃなかったし季節関係なく熱いあいつが苦手だったのもあってあまり側には寄らなかった。壁一枚隔てたみたいな距離。別に毎日喋ることもなければ一緒に行動することもなかった。連れションだってしないしあいつが下ネタを話す相手は僕ではなかった。クラスが離れたら一週間姿を見ないこともあった。それでも、ひとたびあいつが学校を休んだりすると、太陽が雲に隠れるように一瞬で空気の温度が下がるのがわかった。それは僕だけじゃない、他の誰かも感じていたみたいだけど、隠れた太陽の熱は雲を通してさえ届くみたいでいないあいつの話題は学校を休んだくらいじゃ冷めることはなかった。今思えばすごいことだ。小さな地球は太陽の周りをぐるぐると来る日も来る日もまわっているけど、確かに僕を含めてあいつ以外のやつはどれもちっぽけな惑星のようだった。大げさかもしれないけど、本当にそんなやつだったんだ。もう何年前か忘れてしまったけど成人式で集まった時もそんな感じだった気がする。いなくても存在感がある。そういうところが嫌いだったし、そういうところが本当に見本にしたくないなと思えた。
10分くらいたってそれが見えてくる。狭くて傾斜のきつい坂を上ったところで水道の水を一口飲んだ。歩きながら吸った2本目の煙草を排水口のあたりに落とすと、いつからいたのか親子連れのような人たちが、黙ってこちらを見ていた。なにも喋らなかったけど、視線の圧がすごい。この暑いのにカーデガンを羽織った母親らしき人が小さな女の子に向かって耳打ちした。嫌な気分になったけどおそらく相手も同じ気分だろうと下手くそに薄っぺらいお辞儀をしてその場から立ち去る。太陽みたいなあいつが僕のことをはじめてみた時もこんな感じの目をしていたことを思い出して胸くそ悪い気分になったので、できるだけ聞こえないように舌打ちをしたらさっきの親子が僕まで届くような声で何かを言っていた。が、どうでもいいので無視した。後ろにでかい森をしょった一番上の一本道を歩く。一番上の一番奥。仰々しい位置に立ちやがって。偉そうに。そうして後ろの森のおかげでできた影の下に入る。暑いのは相変わらずだったが太陽の熱を受けないだけましだった。
「よう」
そう声をかけて、さっきの煙草の箱から1本取り出して口元に運ぶ。あいつはなにも答えない。久しぶりだな、位言えよ。あんなに口やかましいキャラだったじゃんか。
「1年振りだな、相変わらずあちーな、お前んとこは」
嫌味のように言うと少し風が吹いて灰を地面に落とした。この野郎、と思ったけどさすがに文句を言うような気分でもない。落ちた灰が砂と混じって見えなくなったところを、サンダルでかき混ぜる。元気だったか、なんてこれまで言ったこともない。そんなん見りゃわかるようなやつだったし、熱に冒された僕が言うことでもないなと思ったからだ。
「僕っていうのにも慣れたよ、お前のせいで」
なんでお前に一人称を矯正されたのかも忘れてしまった。でも、あれから反抗するように青いバラは隠すのをやめた。禁煙もやめた。一人称はもう変えられそうにない。一呼吸して、それから煙草を一口吸った。この煙草が終わったら。
「この煙草が終わったら、会いにくんのやめるわ」
あいつは相変わらずなにも答えない。うんともすんとも言わないやつ相手に、話を続ける。
「そろそろ忘れたいんだわ、お前だってそうだろ」
「お前のこと、割とずっと変なやつだと思ってたよ」
「僕は禁煙やめたけど、もうお前はやめとけな、煙草」
空になった赤い太陽のついた箱をくしゃくしゃにしてから目の前に置く。いつもあいつのために持ってきてた煙草。あいつが吸ってた煙草。なぜか元々の銘柄を変えてまで僕も一緒になって吸ってた煙草。
僕が持ってきた煙草は、いつも来るたびなくなっていて、家族がいなかったあいつのところに誰が来てるんだと思ってた。けど、そのうちあいつ僕には禁煙、禁煙ってうるさかったのに本人吸ってんのかよ、って思うようになった。一度やったらやめらんねーもんな、煙草。わかるよ。僕もそうだから。じじ、と音がしてまた灰が落ちた。もう短くなっていたそれをかがんでから地面に擦って、それからもう一度膝を伸ばす。あんま吸ってなかったのに。多分太陽のせいだ。
「お前の吸ってるやつ、それ、ずっとまずいと思ってたんだよね」
そういってあいつに背を向ける。影になったそこから出て、再び熱に肌を焼かれる。あいつは影からでてこない。でてこれない。煙草も自分じゃ買いに行けない。ざまーみろ。

帰り道、コンビニに寄って黒に黄色いラインが入った煙草を買った。空の色が変わっても青いバラは変な色をしていたけど、赤いバラになることはなかった。多分これからも惑星は太陽の周りをまわりつづけるし、夏は毎年来る。部屋を一歩でも出れば容赦なく太陽は僕たちを攻撃してくるし煙草は体に悪い。まあでも。あいつに言われるまでずっと吸ってた自分で選んだ煙草は、思ってたよりずっとおいしくなくて少しむせた。


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おだいばこでもらった、『その煙草を吸い終わったなら、お別れをしよう』というお題でかいてみた。

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