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恋人を振って友人を嫌いになった

昨日、恋人と別れた。僅か2ヶ月だった。

そして私は「恋人と別れろ」と私に伝えた友人と関わるのをやめようと思っている。


恋人に別れを切り出したのは私からだった。理由は簡単で、些細な喧嘩がずるずると尾を引いて、恋人が私の言葉に答えなくなって、会話すらできなくなってしまったからだ。

言葉にするだけならずいぶん簡単な響きに聞こえるだろうし、私も同じような印象を抱く。でもこんな馬鹿馬鹿しいことすら私たちは乗り越えることができなかった。付き合っていたのは2ヶ月と書いたが、一緒に時間を共有できたのは、1ヶ月程度だったと思う。最初のひと月と最後のひと月、恋人はまるで別人のように、今までできていた些細なやりとりができなくなった。そうやって徐々に連絡が疎かになって連絡が取れなくなった1ヶ月間、何度も呼び掛けても、恋人はだんまりを続けるだけで、私の何がだめなのか、話すらしようとしてくれない。正直なところ、私がひどいことをしてしまった自覚もある。でもそれは向こうもお互い様だ。報復のために嫌がらせをした、というわけではもちろん無い。

何度か話し合いをしようと日程を決めたが、恋人はその日程を無視した。私が怒っても仲直りしたいと言っても、何も変わらない。恋人は私に興味がなくなったのだと思うのに、そう長い時間は要らなかった。


周りの友人はそんな恋人をひどい人だと言う。ここには書いていない私の気持ちや恋人の行動を、私というフィルター付きでずっと聞かされていたから私に感情移入するのは当然だ。そんな友人の1人であるAは私に何度も「別れた方がいい」「時間の無駄」「もっといい人がいる」「お前の恋人ははっきり言ってクズだ」と言った。

そんなの、分かっている。私が馬鹿な女だということなど、自分が一番知っている。恋人を自分の都合のいいように見て、「もしかしたら事情があったのかもしれない」と考えて、現実を直視していないのは自分だ。そんなこと、わかっている。でも、少しくらい馬鹿な女じゃいけなかったのだろうか?

結局その言葉に押し潰されるように、私は別れを切り出した。返事は来なかった。返事を待てば長い時間がかかってしまうだろうから、別れたということにしている。

逃げ場の無い私を、友人の言葉は幾度も幾度も刺し続けた。例え幻覚だったとしても、心の支えを急に外された。起き上がるのには少し時間が要る。それでもまだ言葉のナイフはいくつも刺さってきて、私が友人Aに「もう何も言わないでくれ」と悲鳴を上げると、「言い過ぎた」という言葉もなく、友人Aはただ何も言わなくなった。

それを他の友人Bに話すと、「言いにくかったろうに。正直私も同じ意見。あなたの気持ちもわかるから言わなかった。その友達を大事にしなよ」と言われた。

またある友人Cにその話をすると、「私も泣きそうだ、飯に行こう」と言った。

友人Dは「頑張ったね、別れは愛情だよ」と言った。

そして「話聞こうか?」と言ってくれた友人Eは、私のことにちょくちょくダメ出しをしながら、「無理にでも忘れたほうがいい、だけどあなたは恋人のことが本当に好きだったんだね」と言った。

慰めてくれと言えば良かったのだろうか。恐らく、私も言葉が足りなかったのだろう。全員私のためを思って言ってくれているということはわかる。けど、私は友人AとBに強い拒否感を覚えてしまい、今後の意見を受け入れようと思えなくなってしまった。いつかつけなければいけなかったケリをつけることができたという点には、友人A、Bには感謝している。でもそれ以上に、私を慰めてくれた友人C、Dに心から感謝し、友人Eに関しては一生大事にしようと思った。

私は恋人のことをまだ好きで、愛している。どうして私の恋人に接したこともない人が、別れる前にも後にも私の恋人を苛烈に批判することができるのだろう。どうして、「お前にはいい人がいる」だなんて、無責任なことを言えるのだろう。

いくらクズでも、バカでも、ノロマでも。私は一度その恋人を愛した。ひどい記憶も幸せな記憶も、無駄だったなんて微塵も思っていない。お互いが足を引っ張らずに生きていくために、円満でなかったとしても、別れを選んだ。

やがて次へ進むために忘れなければいけないと思う。だけど、「よく眠れているといいな、今日も元気で過ごせているといいな」というような思いを、なぜ踏み躙られなければならなかったのだろう。正直に言ってその友人Aの助言は、恋人がなぜ音信不通になったのか分からない以上、いくら私のためだったとはいえ、馬鹿な私の目を覚ますアドバイスを与えたのではなく、ただ私をきつい言葉で従わせ、正論で論破したかっただけなのではないかとさえ思えてくるのだ。本当にそれは「優しさ」なのだろうか。

正論を伝えてくれる友人はとても貴重だと思う。でももし私が逆の立場だったなら、「つらかったね」や「大切だったんだね」という言葉を使ったかもしれない。事実私は友人Bが昔の恋人と別れた時、会ってただ抱き締めて、ラーメンを食べた。それを友人Bは感謝していると言っていた。それが分かっているならどうして、同じことが必要であると気付きはしなかったのだろう。

友人Bは私が恋人と別れてもなお、恋人の悪口を言った。それでもう返事する気持ちがなくなって、適当に返して会話を終わらせた。

大好きな恋人に、客観的に見て割と常識外のことをされてもなおまだ好きだというのに、嫌いになれないまま私から別れを切り出しておいて精神が大丈夫なはずないだろう。別れて正解だったか、相手が正真正銘のクズだったかどうかなど、落ち着いた時に自分が決める。その意見に便乗して「言った通りだっただろ?」と言われたところで、「はいそうですねその正論がとても痛かったです」としか思えないのだ。どうせ惚れた欲目で、付き合っている時は相手のことをいくらでも過大に評価するだろう。恋とはそういうものだと思う。それもそうだし、駄目なところがあっても、それを受け入れる覚悟があるならば、駄目な人間を好きでいていいと思う。



「優しさ」というものは何だろうかということを、この一件を通じて考えている。

私の目を覚まさせた友人たちをここまで拒否してしまうのは、やっぱり私が馬鹿な人間だからなのだろうか。だけど私は、やはり友人A、Bの意見を「優しさ」とは別のものだと思っているし、《「優しさ」として押し付けられている》と感じてしまった時点で、別に友人らを拒んでもいいんじゃないかと思っている。

もちろん、正論が必要な時だってある。それはあまりにも鋭利だ。だからこそ、言葉をよく選んで伝えなければならないし、本当に大事な人ならば、その言葉で負った傷跡を共に癒す覚悟が必要だと思う。無責任に正論を放ち他者を傷付けるのは、別に大切な友人じゃなくても、誰でもできる。正論を真っ直ぐぶつけるだけなら、それは優しさでもなんでもない。ただの暴力だ。

いい人がごまんといると言うならば、きっといい友人もいくらでもいるはずだ。もし仮に、この友人たちと同じようなことを恋人にしていて今の状況になってしまったというなら、私は何度でも恋人に謝りたい。連絡がつけば、の話だけれど。

いい人が見つかるまでは、当分このままだと思う。少しずつ変わっていかなければと思い、部屋を片付けた。恋人の癖や好きなものが、やがて私の癖になればいいと思う。ゆっくりと思い出を上書きしている。そうでないと、立ち直れないから。当分、大事で、大好きで、愛しているままだ。だから今は、いい友人を探そうかな、と思っている。




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