楽しくない

基本的に他人からどう思われてるかしか考えてない。創作をするにしてもなんにしても、自分が行動した結果として他者からの反応が何かしら返ってこないと物凄く不安な気持ちになる。誰かが言ってた「読書は著者と読者の共同作業」という言葉が呪いのようにいつまでも僕を縛り付けていて、僕の文を読んでくれる誰かが、圧倒されてもう一生文を書こうとしなくなったり、猛烈に温かい気持ちになったり、えんえん泣いてくれたりしなきゃいけない、そうでなきゃ俺が生きてる価値なんてない、早く俺が生きてる確かな理由を作り出さなきゃ、と日々苦しんでいる。父親に大体こういうことを話したらそれはすげぇ不健康だなぁ、と言われて確かにな、と思った。自分がそれほどまで頑張って頑張って努力した結果としての対価が他者の感動、という可視化されにくいものに落ち着いている以上、本当に僕は満足することなんてないしそうなってくると死ぬまで一生こうやって苦しまなきゃいけないんだなと思った。例えば拍手。僕はうんうん、頑張ったね、よく頑張ったよ、の拍手が本当に嫌い。どうせならあいつには勝てない、あいつにしかできないと思われるようなことをして賞賛を貰いたいのにそれを本当に確認する術は確立されていない。本当にそういうものを目の前にした時、言葉なんていらないから「物凄く感動しました😊」とかで言い表すことはできない。言葉というのは曖昧なものを曖昧なまま伝えることができるけれど、だからこそ人によって意味付けに差があったりそこで齟齬が生まれたりする。そもそも僕たちは感情をそのまま言葉にしているような気になっているけれどそんなの全然違くて、「なんとなくこんな気持ち」を「嬉しい」とか「感動」とかの枠に強引に当てはめてるだけであって、別に気持ち自体が「嬉しい」「感動」という形を持ってるわけでもない。僕のこの「悲しみ」は「(そういう言葉でしか表せないから仕方なく使うけど)悲しみ」であって、正確に言葉にすることはできない。この気持ちはなんて言う?既存の言葉に当てはまるなら、悔しい、だね。


人生相談みたいなノリになって、「達成感を感じられてないんじゃない?」という何とも芯を食ったような話が出てきた。成長するにつれて感情の種類とか起伏とか色んなことが変化してきて、僕はそれに若干疲れている。何か自分がやるべきこと、やりたいことがあったときに、それを上手くやれたら
「あー、この状態をいつまでも保つだけじゃ他人から飽きられちゃうし、いつかは上手くやれない日が来るんだろうな、」
と考えて悲しくなるし、今上手くできないんなら「こんなことも充分にできないなんて、自分が価値を見出したことも出来ないなんて、本当に生きてる意味ないじゃん、」
と考えて悲しくなる。自分の内面に対して鋭くなれたのは良いことでもあるけど、本当に疲れることでもある。何かを考える、ということを僕は大切にしてきたけど、それがさっきの、言葉と感情はリンクしてない実感だったり、先回りして悪い未来を想像して悲しくなることに繋がってくる。いっそのこと何も考えない方がよっぽど良いと思う。何かを見たときにそこの裏にある背景とか理由とか、色々考えるなんて全部結局無駄なのだ。月を見て月の裏面を想像することも、あれが地球から遠く離れた天体だということも、「月」という名前であることも、僕たちは知らない方が良かった。ただ、暗いところになんか大きな光があるな、綺麗、だけで良かったのだ。



病んでる人を見かけると嬉しくなるのは僕の倫理観がバグっているからではなくて、闇を抱えながらも生きてるその姿が本当に眩しいからだ。なんだかんだのらりくらり生きてる場合も漏れなくカッコいい。そんなこと考えられないかもしれないけど、自分が病んでいるとき、他の誰かがそれを見て勇気を貰っていることも確実にある。僕はこれこそ他人に及ぼしたい影響であり、今のところ最高峰に訳わかんない感情で面白い。死にたいは生きたいの裏返し、なんて拗らせたGreeeenみたいなことは絶対に言わないけど、「死にたい」を見て、生きなきゃ、と僕は思ってしまう。

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