一顰一笑ツアーを過ごした私より
始まったものが終わることは当たり前のことなのだけれど、それがどれほど尊いものか。ここ数年で嫌になるほど痛感した。細かい傷が沢山ついて、絆創膏だらけになった。昨年秋に秋田の地で開催が発表され「高橋優 初の全国47都道府県弾き語りツアー」という文言だけで心と身体を踊らせたあの日から、今日まで。過ぎてみれば本当にあっという間だった。”今”がどんどん過去になって未来がどんどん”今”になっていった。その過程を歩いて進んでる間、高橋優がずっと隣に居てくれた。そんなツアー期間だった。
目を覆いたくなるくらい悲しくて辛くてやり切れない出来事ばかり起きて、なんなら人生ってそういう割合の方が多いんじゃないかなんて。「 そんなもんだよ人生なんか 」と薄ら漂う絶望と混沌の中にほんの少しだけある希望とか光の類を素手で集めて集めて集めて、かき集めて「ここにあるぞ!!!俺たちの希望!!!」と体現して全力で届けてくれているみたいだった。明日があること、季節が巡ること、今ここに居られること。大袈裟で忘れがちで何よりも大切なことを。その姿がなんとも形容しがたい、清らかで、繊細で、力強くて綺麗で。とにかくそれを体感する度に新鮮に心が大きく揺さぶられた。
全力が伝わってくるからこちらも全力で返す。最後の長い長いお辞儀の後にパッと上げた顔が真っ赤だった。ぎゅうっと真一文字に結んだ唇も耳も鼻も大きくて綺麗な目も。
音楽という、不確かで不完全なものを信じて。何も見えない真っ暗闇に己を切り分けて作った音楽をひたすら投げ込み続けるような日々に孤独を感じることもあるんじゃないか。「 誰かに、あなたに、届けばいいな 」 と投げ込んだそれがあんな風にあたたかくて大きな反応として自分に返ってきた時、どんな気持ちになるんだろう。気持ちがぎゅうぎゅうに詰まったたくさんの大きな拍手、声に乗せて届けられるようになったいっぱいの「ありがとう」 。会場の全部が「あなた」に届け!と降り注ぐ真ん中に立つ高橋優の涙は本当に綺麗だった。溢れ慣れてないような、不器用に溢れたその感情を見てどんな感情になるのが正解なのか分からなかった。なんだか毎回私も泣いてた。
ちょっと恥ずかしそうに、ちょっと悪戯っぽく言う「 もうさぁ、家族とか恋人とかとも違う特別な関係だと思ってるんだよねぇ 」が嬉しかった。シンプルな言葉がシンプルに嬉しかった。ファンのことをそういう関係だと思えている高橋優のことも、こっちが高橋優にそういう関係だと思われてることも。両方の意味でとても嬉しい。イマジナリーマブダチ高橋優、一生一緒に居ような( 少し背伸びして肩を組みながら )
大袈裟に聞えるかもしれないけれど気持ち悪いかもしれないけれど今までも何度も言っているけれど、私は高橋優の音楽があるから生きられてると言いきれる部分が沢山あって。そんなひとがステージ上で「 音楽を信じてやってきて良かった 」「 今日みたいな日があるなら、また生きていける 」と噛み締めるように言っていた。心底おこがましいけれど、「 なんだ、同じじゃん 」と思った。今までだって何度も何となくは思っていたけど、今回でそれが確かなものに変わった。ああ、この人も自分と同じように悩んで同じように傷付いて同じように涙を流して同じように「今日みたいな日」を目指して何でもない日常を生きてるんだと。そんな人が紡ぐ言葉や作り出す音楽が力にならないわけないじゃないか、響かないわけないじゃないか。なんだ、そういうことかとやけに納得した。高橋優の音楽があって良かった、あなたと出会えて良かったと、重症レベルの天邪鬼な私でも素直にそう思える。おかげで、なんでもない日常が この瞬間のため の 意味のあるもの になったんだ。わたしは途轍も無く頭が悪いバカで心が弱い人間だから、すぐクソみたいな非日常に殴られて大ダメージを受けてしまってこのかけがえの無い真実を忘れちゃう時もあるんだけど、忘れないでいたい。忘れないでよ。お願いだよ。ちょっと先を生きる私よ、しっかり覚えておいて、
この人のおかげで未来が眩しくて涙が出るんだよ。
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