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夜の魔法使い〜PART.1

~プロローグ~
 あれは肌がじんわりとろけてしまうような、暑い夏の日のことだった。二人の少女の影がブランコの前に並ぶ。母親の手作りのワンピースが風に揺らぐ。
「あたしは好きよ。大好きよ。」
静かな住宅街に響くその声は乾いた砂漠にポツンと生まれたオアシスのようで、透き通って光り、消えた。
「私は、もう嫌になったの。」
一人の少女が夕日の赤く差し掛かったこの公園に背を向けて足早に去った。小さな細い足を速く、早く。残された少女は羊毛の様に柔く広がるその金髪を生温い風になびかせて、下を向いた。木々が彼女を中心に揺らめいた。一瞬ひんやりとした風が吹いて、彼女もまた公園を後にした。
 この日を境に彼女らは二度とこの公園に集うことはなかった。シーナ・ドーハティとアニー・ドーハティ姉妹の少女時代の事であった。

Ⅰ.狂った妹
「さあ、パパ、テーブルについてください。今夜はご馳走よ。」
母親のセシリアが巨大なミートパイを両手にキッチンから顔を出した。すっかり暗くなった外をシーナはカーテンを勢いよく閉めて遮断した。彼女はリビングの床に寝転がって分厚い本に夢中になっている妹をちらりと見るとため息をついて目を逸らした。
「パパ、ここの意味が分からないわ。教えて。」
アニーは唐突に顔を上げると既にダイニングにいる父親のバリーに声をかけた。その大きな青い瞳を真ん丸にさせて、彼女はじっと彼を見つめた。バリーは一瞬席を立とうとしたが、シーナの視線に気が付いてその腰を上げることはなかった。
「アニー、今日はシーナのお祝いだ。後にしなさい。ママの手伝いをしておいで。」
シーナはそれを聞くと気分よく言った。
「アニー、あなたもちゃんとしていればよかったのに。いつからそんなおかしな子になっちゃったのかしら。私は受験もきちんと頑張った。だからママもパパもお祝いしてくれるの。でもあなたは?」
シーナは妹と同じ青い瞳を輝かせながら、ダイニングテーブルに皿を運んだ。その間中、のそのそと立ち上がるアニーから目を離さなかった。
「何度も私は言ったわ。ええ何度も。小さい頃からずっと。なのにあなたは何も変わらない!ずっと変なことを言って、私や家族を困らせた。当然友達も離れていくわ。だからもうあなたは13歳だというのにまるでお子様だわ!さあ、アンちゃん、お夕食よ。席に着いて。」
シーナは勝ち誇ったような気分になって口早に三つ下の妹に言葉を投げた。アニーが小さくぼそぼそと何か言っていたが、シーナは聞こうともせず何も気に留めなかった。アニーは今までシーナが気を高ぶらせて言葉をぶつけてこようとも一度も反撃に出たことはないのだ。
 アニーが表情を曇らせたまま席に着くとセシリアがスープを盆にのせてキッチンから出てきた。シーナはそれを受け取りテーブルに並べた。
「さあ、始めましょうか。アンちゃんもシーナのお祝いよ、もっと笑いなさいな。」
「でもあたしのお祝いじゃないわ。」
セシリアがアニーの隣に座って声をかけるとアニーは初めて口答えをした。
「あら、家族のお祝いよ。」
「シーナはあたしを家族じゃないって前に言ったわ。」
「あらあら、いつも喧嘩しているのね。でも今日はお祝いなんだから。」
セシリアは笑いながらアニーにジュースを注いだグラスを渡した。バリーがミートパイを切り分け、そして、穏やかに微笑んでいた。しかし、アニーの表情は依然暗いままだった。
「シーナのお祝いばかり。」
「あら、だから言ったじゃない。アニー、あなたもちゃんとすればお祝いしてもらえるわよ。」
アニーの小さなつぶやきにすかさずシーナが口をはさんだ。シーナが口を大きく開いてミートパイを頬張るとポロポロとパイのくずが皿に零れ落ちた。
「アニー、今回は受験もできなかったが、そのうちちゃんと勉強してくれるのなら、高等部は受験したっていいんだよ。」
バリーはそう言うと、この話はもう終わりだと言うようにワイングラスを掲げた。乾杯をすると、やっとディナーが始まった。
 シーナとアニーの姉妹は、嘗てはずっと一緒にいるほど仲が良かった。朝早くから日が暮れるまで外で飯事やサイクリング、虫取りをして、夜中は二人で絵本を読んだ。お揃いの服を着て買い物に連れられる時などは二人しておめかしをした。しかしアニーは物心がつく頃合いから、少しずつどこか不思議な子へと育っていった。特別異常な様子はない。ただ、時折、不穏な厚い雲が太陽を覆って窓の外が鈍く暗くなるように、彼女の言葉と顔に怪しい陰が宿った。それはアニーの周りの人にとってみれば恐ろしいことだった。例えば、初めてアニーにそのような様子をうかがえたのはシーナが七つの時であった。シーナが学校から帰宅するとアニーはいつもの様に玄関先の花壇で遊んでいた。シーナは肩に背負っていた鞄を地面に放るとアニーに駆け寄り、また飯事をするつもりで声をかけた。しかし振り返った妹の表情はどこか虚でいつもの爛々とした光が消えていた。少し違和感を感じながらシーナは彼女の手元に目線を移した。そこには、気味が悪い光景が広がっており、シーナはハッとした。花壇の端の地面に蟻の行列があった。アニーは地面に真っ直ぐ指を立てており、そこに蟻がぶつかると途端に消えていくのである。パッとまるで指に吸い込まれているかのように一瞬で消えた。一匹、また一匹と蟻が消えていった。シーナは自分の目を疑いながら何度も見直したがどうも本当に消えているようだった。そして、この有り得ない出来事に困惑しつつやっと出た言葉は「アニー、何をしているの。」だった。その言葉を聞いた瞬間、アニーの表情は元に戻った。花が咲くようにふんわりと彼女は姉に微笑んだ。シーナは不安に感じながらまたアニーの手元を見た。そこにはもう何事もなかったようにただ蟻の行列があり、アニーの手はどこにも触れず、勿論何かを消している様子もなかった。まるでシーナだけが不思議の国に迷い込んだように、そこには当たり前の日常の続きがあるだけだった。
 そして、このような出来事はシーナのみならず、アニーと接するすべての者に見え始めた。セシリアは「気のせいだ」と言い張った。バリーは最初こそ面白がっていたものの今では見て見ぬ振りをした。否、アニーの前でこそ知らぬ顔を決めていたが彼女のいない間に真剣な顔つきで自分の娘は魔女なのではないかと悩んでいることをシーナ知っていた。というのも、彼の母方はフランスの血筋の通る由緒正しい家柄だった。魔女がどうのだの、そんなことはファンタジーである現代で、未だに魔女を嫌らしく感じているらしい。アニーの友達も皆、彼女の様子を気味悪がった。ナイーブな彼女の友人などは動物の死や傷だらけの子供の幻覚が見え始め、その恐ろしさにアニーを遠ざけた。その噂を聞きつけたシーナの友人達までアニーを悪魔に取り憑かれていると言い出した。シーナはアニーの奇行のせいで友人を失うことになったことも少なくない。そんなことがあって、シーナはアニーを単純に可愛い妹とは思えぬ複雑な想いを抱えるようになった。
 しかしシーナはアニーの起こす出来事を不思議だとは感じたものの気味が悪いと思ったことはなかった。ひどく迷惑を被ったこともあった。嫌な気分になったこともあった。しかし何故か、そのハプニングに悪魔的、黒魔術的な要素を見出せなかった。むしろ、神秘的で珍しく見え、時に無意識に羨ましく感じてしまっていたこともあった。アニーは常にその影響を周囲に与えているわけではない。決まって何かに没頭し、周囲と切り離された世界に一人訪れている時、彼女は摩訶不思議ななにかを起こし得た。シーナはただ一人、そのことに気がついていた。そう、アニーはきっと、他人をどうこうなど考えていない。もっと単純で不思議な、世にも珍しい魔法なのだ。
 だが、そこまで明確に感じていながらシーナはアニーを許せなかった。自由気ままな妹に腹立たしさを感じていた。友達が減るのも、親から信頼を得られないのも、彼女の自己責任だ。シーナは努力をしていた。勉強や家事、思春期ならではの美意識だって怠けなかった。それでいて何もせず、ただただ迷惑をかける妹にシーナは妬ましさと羨ましさ、嫌悪を、ぐるぐると渦巻かせながら感じていた。彼女の不思議な影響力に彼女の意思が無かったとしても、迷惑な妹に実は何か非日常なイベントが降りかかっていたのだとしても、はたまたそんな訳で彼女が魔女になっていたのだとしても、シーナは彼女を狂った妹とは思えなかった。だからこそ、シーナはアニーを許せない。アニーはただの怠け者なのだと感じざるを得なかった。
 夕飯の時間が終わるとアニーは早々風呂場へ去っていった。そうしておやすみの挨拶も言わずに自分の部屋に籠った。アニーはきっと、彼女の友人たちと同様に家族までも自分を気味悪がっているのだろうと思っているのであろう。特に彼女の両親に関しては、アニーを気味が悪いどころか、触れてはいけない恐ろしいものの様に扱うこともしばしばあった。露骨に恐怖の表情を顔に浮かばせるものだから、アニーは何度か悲しそうに彼らの前から逃げるように去っていったこともあった。そんな時、シーナは決まってアニーを気の毒に感じながらも果たして優越感と言うのものなのか、両親や周りの人からアニーが受け入れられず、自分のことは誇りに思われているこんな状況を嬉しく感じていた。しかし、なんだかすっきりせず、シーナは余計にアニーのことを考えてしまう日々で、早く彼女には「きちんと」してほしかった。そんなことを思いながらシーナもまた、風呂場へ向かった。
 シーナは高校入学の前夜を珍しく「アニーの事」で悩まされずに過ごした。風呂から出るとセシリアに高校で使えるようなブランドのボストンバッグをプレゼントされた。バリーからはシーナが前から密かに(あわよくば親に買ってもらおうとアピールは怠らずに)欲しがっていた洋服をもらった。アニーのことがあるから親からは並み以上に可愛がられた自覚はあるが、「普通」の「家族」の幸せをシーナはいつもより楽しんだ。
「ママ、パパ、本当にありがとう!明日からの学校生活も最高に楽しむわ!」
シーナが目を爛々とさせてそう言うと両親は暖かく微笑んだ。
 その夜に事件は起こった。シーナがベッドに潜り、夜空の星が静かに見守る深夜、その影はドーハティ一家の家を怪しく包んで消えた。大人も眠る闇夜の事だ。シーナが気が付くわけがなかった。気が付いてはいけなかった。

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