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福井・越前百万石に行く旅〜③越前市武生〜

※2024年5月の内容です

あいにくの雨模様ですが、越前市武生に行ってきました

 

武生に向かうため、まずは福井駅からスタート
このえちぜん鉄道の駅舎いいですね…
なんだか電車の模型のディスプレイみたいな…かわいい
ちょうど2つ並んでよいタイミングでした

めがねのまち さばえ

途中、車窓から見えた建物
福井駅〜武生駅の途中にある鯖江市は「メガネの聖地」と呼ばれ、日本製メガネの約95%を生産しているそう
生産量だけでなく、各工程専門の熟練の職人さんがたくさんおり、加工の難しいセルフレームや金属アレルギーの起こりにくいチタン製のフレームなど、クオリティも品質も高いメガネを作り続けています
JINSともコラボしているようで、より身近なところで購入もできるようです

⚫︎JINS IPPITSU

https://www.jins.com/jp/jins-ippitsu/


越前市武生はどんなところ?

越前市は古くは「越の国」と呼ばれ、東国への最前線として重要な拠点でした
そのため奈良時代からは国府が置かれ、政治・経済・文化の中心地となります
平安時代には紫式部が父・藤原為時の国司赴任に伴って、一年あまりをここ武生で暮らしています
大河ドラマ「光る君へ」でも、まひろが越前で過ごしていますね

越前和紙などの産業も盛んで、源氏物語や枕草子など、当時の文学作品を執筆するための良質な和紙もここ越前で作られたと言われています  
紙祖神の「川上御前」を祀った、岡太(おかもと)神社が武生駅の東側にあります

川上御前の伝説

今から1500年程前、越前五箇という地区を流れる岡太川の上流に、一人の美しい女性が現れ次のような言葉を人々に伝えた。

「この村里は、谷間で田畑が少なく暮らしにくい場所ですね。ですが、清らかな谷川と緑深い山々に恵まれていますから、紙を漉いて生計を立てれば暮らしは楽になるでしょう。」

そして女性は村人に紙の漉き方を教えられた。

村人たちはたいそう感謝し女性に名前を尋ねると、「川上に住む者です」と答えたため「川上御前(かわかみごぜん)」と呼んで崇めた。川上御前は、万物を産み出し育てる水の神様とも言われ、子育ての神とも信仰されたそう。

そんな川上御前をおまつりしたのが「岡太(おかもと)神社」のはじまりだ。「延喜式神名帳」(926年)にも式内社としてその名が登場している。

岡太神社・大瀧神社 ~紙の神様をまつる神社、日本一複雑な社殿建築~|神社専門メディア 奥宮-OKUMIYA- (okumiya-jinja.com)

室町時代には朝倉一乗谷に拠点をもつ朝倉氏の奉行が派遣されており、
戦国時代には前田利家が府中城を築城します

前田利家にとっては初めて持ったお城で、今の越前市役所付近にあったそう
その遺構が武生公会堂記念館にてみることができます
前田家の加賀百万石はここから始まったんですね



武生駅に到着
武生駅のある越前市は越前打刃物の里
武生駅のホームには刃物でできた大きな龍が!

引用:https://www.mapple.net/spot/18000553/

鱗などギラギラしていて迫力がある龍です


千代鶴神社

武生は越前刃物で有名な土地でもあります
熱田神宮に奉納されている次郎太刀を作った刀工・千代鶴國安が活躍した地域でもあり、地元には千代鶴國安を祀った千代鶴神社もあります

越前打刃物の歴史
 1337年(南北朝時代)京都の刀匠千代鶴國安が刀剣製作に適した地を求め、府中(現越前市)に来住し、その傍ら近郷の農民たちのために鎌を作ったことが起源とされ、今でも元祖として大切に奉られています。

https://www.echizenuchihamono.com/about_us/

⚫︎千代鶴神社

⚫︎熱田神宮への旅はこちら↓↓


さて今回は、2024年の大河ドラマ「光る君へ」、紫式部に関する地をメインに回りたいと思います

引用:https://www.fuku-e.com/lsc/upfile/articleDetail/0000/1611/1611_d005_file.pdf

総社大神宮

まずはこちらにお参り
駅から神社までまっすぐ大きな道が続いていて、周りにも石畳の寺町通があり、情緒のある街並みです

奈良時代にこの総社大神宮や国分寺が建立されて以降、たくさんの寺社仏閣が集まっているエリアです

毎年5月には「火除けの御獅子頭(おはいごう)」、「おはいごさん」が行われます
聞き慣れない言葉ですが、由来は下記のようになります
創建された奈良時代だけでなく、戦国~江戸時代にも大事なものを奉納=武生に行こう!となるほど、ずっと大切な場所と認識されていたんですね

今から420年程前 天正3年の頃、南条郡河野浦に一個の御獅子頭が漂流して来た。これを同浦の刀祢新左エ門氏(同村旧家)が拾い上げたが、あらたかな霊相にうたれ産土大神様である(河野浦は当時当社の社領地であった)府中総社に奉納しようと件の御獅子頭を戴き、浦人一同を従えて赤萩(河野村赤萩)から府中(武生)に上った。

一行は5月1日未明、町外れに到着したが朝早くてたいていの家は起きて居らないので「オハヨー、オハヨー」と表戸をたたき起こして歩き多数の氏子に出迎えさせて総社に入り恙なく奉納を終えた。これが毎年5月1日御獅子頭巡幸の時は夜の明け切らぬ中に氏子の門戸を足けりして家人を起こす習わしとなって明治初年まで続けられてきたが、現在は日中お立ち寄りをすることとなった。これからこの御獅子頭をオハイゴーさんと呼ぶようになったのであります。

http://www.osonjasan.jp/contents/ohaigo..html

この総社があることによって、国府がこの越前にあったという根拠の一つにもなっているそうです
重要な拠点があるところに、大きな寺社仏閣を作るのは当時のセオリーですね

東北の重要な国府・多賀城にも、多賀城付属寺院などがあり、
さらに北の最前線の国府・秋田城にも四天王寺などが同じエリアに建てられています
あちこちの史跡も合わせてみることで当時の国を治める方針がわかりますね

また紫式部の御朱印も
紫式部にちなんで上に藤、下に越前市の花・菊をあしらった雅な御朱印です
このほかにも恐竜の御朱印「御竜印」もあります
福井の有名人や名物がよくわかる御朱印がたくさんでうれしいです


本興寺

さらに越前国府のあったと言われる本興寺へ
敷地の一部が現在調査されているようで、その前に立て看板があります
ここに国府の主要な建物があったのね…

発掘調査の場所 国府の中核施設跡の有力候補地

敷地としてはもっと大きく、役所の建物も近くにいくつかあったようです
復元図を見ると多賀城や秋田城など、同時期の国府と同じ建物構成
当時の重要なお役所は大体同じ見取り図なので、まあわかりやすいといえばわかりやすい
ここで紫式部のお父さんはお仕事していたんでしょうか?毎日どんな感じの職場だったんだろう?

令和5年から越前国府発掘プロジェクトもスタートしており、現在調査が進められているようです
まだまだ謎が多い越前国府、これからも面白そうな話題がありそうで、とてもわくわくしますね


蔵の辻

そんな寺社仏閣のある寺町通りからすぐ近くにあるのが「蔵の辻」
白壁の蔵が立ち並ぶ、レトロな雰囲気の町並みです

もともとは、越前が関西~北陸方面の物流能中継地として栄えたため、商人の倉庫である蔵がたくさん並んでいた場所だそう
政治・文化・経済の中心地ならではの場所ですね
現在は蔵を改装したカフェや居酒屋、日本料理屋と雰囲気のあるこだわりのお店が多いようです


紫式部の歌碑「ふるさとに 帰る山路の それならば 心やゆくと ゆきも見てまし」

紫式部の歌碑もあります
内容としては

降り積もった雪を山のようにしたので、侍女から「ご覧なさいませ」と声をかけられたので
「都に変える山道の雪ならば見たいけれども…」と

こんな感じでしょうか?ホームシックだったのか、毎日降り積もる雪の多さにうんざりしていたのか。落ち込んでいるようなそっけない返事です

今の山形県新庄市にあった、江戸時代の新庄藩の10代藩主・戸沢正令も随筆「雪の詞」で
「(一晩に三尺・四尺ぐらい積もったりすると)雪はきれいだなんて思えなくなる」
「(雪囲いをすると)家の中があまりうっとおしくなる」
と雪国特有のうんざり感が伝わる文章を残しているので、これより800年前の雪深い土地の冬はよほど堪えたのかもしれません
実際、現代の山形県民としても、毎日雪かきしてキリがないほどふるので…正直嫌になります…
適度に降る雪が一番綺麗ですね…殿様…

紫式部にはお気に召さなかった越前の冬ですが、
現在は越前ガニが旬を迎え、ウィンタースポーツでスキー場などがにぎわいます
温泉も多く、また水ようかんの季節でのあるため、こたつで甘いもの食べ温泉であったまり、仕上げに越前ガニのお料理楽しむのものもよいかもしれません


ちひろの生まれた家

蔵の辻からタンス通りに向かって大門通りに入ると、いわさきちひろの生家があります
今は「ちひろの生まれた家記念館」として当時の町屋を再現した建物が残っており、母子の暮らしや生まれたころのエピソード、再現した東京のちひろのアトリエなどをみることができます
2階にはギャラリーがあり、定期的に企画展が開かれているそうです

ちょうど休館日の火曜日だったので中は見れませんでしたが…外側から雰囲気だけ眺めてきました

1918年…ちょうど第一次世界大戦が終わり、日本では富山県で米騒動起こった年にあたりますね
誕生日が12月15日ということは、その約半年後にベルサイユ条約が結ばれたことになるのかな?
20代前半ごろに第二次世界大戦が起こったことになります
そう考えるとものすごく激動の時代です
そんな前半生を過ごしたからか作品からは、半世紀前たった今見ても、描かれているこどもたちはかわいらしく幸せそうで、この建物や通りにも穏やかな時間が流れているように見えます
子供が幸せでいるのは何よりの平和だなぁ

そして、この通りは「大門通り」でいいのかな?
帆山寺へと続く参道であったようです

「くわんのんみち(観音道) 東三丁帆山寺」の石柱

石柱は近世のもののようですが…「東に三丁(約300M)で帆山寺」という内容が書かれています
確かに今の観音山帆山寺まで400Mぐらいなので、あってますね

この参道、まっすぐ東に伸ばしていくとちょうど村国山の山頂あたりにぶつかります
山のふもとの一部は「帆山町」ですし、もしかしたら何か関係するのかもしれないですね
古代の国府の調査が進んでいくと、古代の武生の町並みももっとわかってくるのかな?楽しみですね


ところで、町中のところどころ「大河ドラマ『利家とまつ』ゆかりの場所 こちら→」という看板を見かけます
前田利家が初めて治めた府中城があったところですが、それ以前にも織田信長の朝倉一乗谷攻めの拠点となっており、今回の大河ドラマ「光る君へ」以前にも大河ドラマの舞台になっていたようです

龍門寺(龍門寺城跡)

その朝倉攻めの際、信長が本陣を構えたのが、この龍門寺城
朝倉滅亡後の2年後には旧朝倉遺臣と協力した土一揆勢が越前一向一揆をおこし、
一揆勢がここを占拠したため、信長が再度攻め入りました
一向一揆攻めの後、府中三人衆の前田利家に府中城を、佐々成政に小丸城を、不破光治にこの龍門寺城を与えています
さまざまなドラマがある場所なんですな

今はつつじのきれいなお寺でした
この門近くに見通しの悪い四つ辻「卍が辻」があり、城の堀跡か?「人枡」であったのでは?と言われています。ここがお城であった名残なんでしょうけれど…今の交通安全的にはありがたくないな…
このほか、周りにはほかに4つのお寺があり、前田利家の夫人の念持仏であったといわれるまつの念持仏があります


末広神社

さらに南に行くと、末広神社があります
火伏せの神様として、火をよく使う越前打刃物の鍛治職人さんたちに信仰されている神社だそうです
地元の方々にも火災避けのご利益があるとして、親しまれているそう

同神社では1年の最初の「庚申(こうしん)の日」に、神殿地下の井戸水をくみ上げて「火伏せの水」として配っている。水を入れた容器にお札を張り、台所など火を使う場所に置くと火災を防ぐお守りになるという。

https://www.hokurikushinkansen-navi.jp/sp/news/article.php?id=NEWS0000026283

鎮火御浄水はお正月や年明けの風物詩として馴染みがあるみたいですね
ポリタンクにお水入れてる様子は、なんというか昔からの習慣が今の日常に繋がって身近にあるような感じがよく伝わります
本当に毎年恒例の行事なんですね


紫式部公園

やっとこさ到着しました!
今回来たかった場所、紫式部公園です!!

紫式部像
見つめる先には霊峰・日野山があるそうです

金色の紫式部像が雨の中映えますな
紫式部の見つめる先には、越前富士と呼ばれる日野山があるとのこと
天気が良い日にはとてもよく見えるそうなので、今度来たときは晴れているといいなぁ
像の周りには紫式部と越前に関わる歌碑がたくさんあります
式部の歌だけでなく、文豪の揮毫やことほぎの歌など文学に関わる歌碑がたくさんあります

「みのうさは 心のうちに したひきて いま九重に 思ひみだるる」円地文子 揮毫

(意味)
宮仕えをしていても、わが身のつらさや憂いは、いつまでも心の中についてきて 今 宮中であれこれと心が幾重にも乱れることだ。

紫式部は、夫 藤原宣孝に先立たれた後、娘 賢子を育てながら物語の創作に明け暮れていた。
やがて物語作者として知られるようになった紫式部は、一条天皇の中宮 彰子のもとに女房として召し出される。
紫式部の初出仕は、寛弘2年(1005)(一説に寛弘3年)12月29日といわれる。
この歌は、そのときに詠んだ歌で、「紫式部集」では、「初めて内裏わたりを見るに、物の哀れなれば」との詞書に続いて、この歌が収められている。
「九重に(ぞ)」は、宮中の意と、幾重にもの意をかけている。
これまでの境遇と一変した宮中の栄華のさなかに身を置いて、いくえにも思い乱れる内心の憂いを見つめた歌である。
なお、この揮毫が、円地文子氏の絶筆となったといわれている。

紫式部歌碑(円地文子書) (gururinkansai.com)
「ここにかく 日野の杉むら 埋む雪 小塩の松に けふやまがへる」 谷崎純一郎・揮毫

初雪が降った日、日野山に積もった雪を眺めながら、都にある小塩山の松を思い出して詠んだ歌。

 「日野山の杉は雪が降って埋もれんばかり。都の小塩山の松にも降り積もっているのだろうか」

 この歌の返歌は、

 「小塩山 松の上葉に 今日やさは 峯のうす雪 花と見ゆらむ」

 「小塩山の松の上葉に初雪が降って、峯の薄雪は花のように見えることでしょう」

紫式部の歌碑~ここにかく…日野山の歌:紫式部公園~ (yoritomo-japan.com)
「春なれど  白嶺の深雪  いや積り  解くべきほどの  いつとなきかな」

「年が明けたら唐人を見にそちらへ参ります」 と言っていた藤原宣孝が、年が明けると、
 「春になれば氷さえ解けるもの。 あなたの心もとけるものだと、どうにか教えてあげたい」
 と言ってきたことへの返歌。

 「春になりましたが、白山の雪はますます積もって解けるのはいつのことかわかりません」
(春になっても私のあなたに対する気持ちは解けません・・・)

 藤原宣孝は、紫式部が帰京した後に結婚する相手。
紫式部が父・藤原為時の越前下向に同行したのは、父親ほどの年齢差のあった宣孝からの求婚があったことも理由の一つといわれる。
この歌を詠んだ頃は、宣孝のプロポーズを断っていたらしい・・・

紫式部の歌碑~春なれど…宣孝への歌:紫式部公園~ (yoritomo-japan.com)


お庭は平安貴族のお屋敷・寝殿造庭園になっているそう
…いやこれなんかみたことあるな??
平泉の毛越寺の池にそっくり

⚫︎平泉の旅はこちら↓↓

なるほどね
最近できたのかな?と思ったら、昭和58年から整備されたとのこと
「作庭記」の研究や毛越寺のお庭など平安時代のお庭の復元研究を行っている方が手掛けているから、そっくりなんですね
なるほど〜
毛越寺の池も中島に橋があったらこんな感じだったのかな?
州浜や池中立石など、本当に面影があります


寝殿造の建物

池に張り出た釣り殿の中には、文机と筆・硯が
紙(?)にはちょうど石碑にもあった歌が書かれています

「ここにかく 日野の杉むら 埋む雪 小塩の松に けふやまがへる」 

花菖蒲とつつじが咲いてていい眺めだな~
平安時代の貴族もこんなお庭を眺めながら暮らしていたんでしょうか?
遠くに山が見え、きれいな景色が出来上がっています



ふるさとを偲ぶ散歩道

次に今回のメイン・越前大河ドラマ館の会場に向かいます
紫式部公園から武生中央公園まで続くのが「ふるさとを偲ぶ散歩道」
この1200メートルの道は「ミニ庭園ゾーン」「歴史と文化ゾーン」「紫式部ゾーン」の3つに分かれ、源氏物語の帖名と源氏香図の陶板がずっと五十四帖までずっと続いています

ミニ庭園ゾーン
芭蕉の句碑「「明日の月 雨占なはん 比那が嶽」

明日の晩は、雨になるのか、月は見えるのか。比那が嶽の晴れ具合でそれを予想してみよう。なにしろ、「北国日和定めなき」で北陸地方の秋の天気の変りやすさは油断ならないのである。

明日の月雨占なはん比那が嶽 (yamanashi-ken.ac.jp)
「花散里」の帖名と源氏香の陶板
「しきぶきぶん」のクイズも

これは通るだけで楽しいなあ…


かこさとし ふるさと絵本館 「砳(らく)」

散歩道の途中、レンガ造りのレトロな建物が
「だるまちゃんとてんぐちゃん」や「からすのパンやさん」などで知られる越前市出身のかこさとしさんのふるさと絵本館がありました

だるまちゃんがおる かわいい!
遊具もかわいい
かわいい
けんけんぱ! かわいい

砳(らく) の意味
【石】が「へん」と「つくり」になっている見慣れない漢字です。
諸橋 轍次編『大漢和辞典 巻八』(株式会社 大修館書店)には、「二つの石が打ちあつて音を出
す。」と記載されています。
石の持つ重圧さと、二つの石が打ち合って一つの音を醸し出した残響の響き合うイメージが、
石を生かした建造物である当館の名称の由来となっています。
外壁面に使用されている石 ・・・ 石川県那谷寺産 日華石(2,400個使用)
1階 あそびのへや に使用されている石 ・・・ 福井県産 笏谷石

越前市かこさとしふるさと絵本館「砳(らく)」 ホーム - 越前市 (echizen.lg.jp)

ここにも福井県の笏谷石が使われているようです
本当に古代から現代まで、県民の身近にある石なんだな

こちらも火曜日がお休みだったようで、休館日でしたが
広場がとてもかわいくて楽しかったです
今度はあいている時に、ちひろの家と一緒に見てみたいなあ


大河ドラマ館(武生中央公園)

やっと武生中央公園にたどり着きました!

公園内の大河ドラマ館へ

入り口に主人公のまひろと越前に一緒にきたお父さん・藤原為時、藤原道長のパネルが
パネルのみなさんと一緒に撮影ができます
道長さん背が高いな!道長役の柄本さん、182センチあるんですね…そりゃ大きいはずだわ

まひろの部屋も再現されていました
筆を持って執筆しているポーズをとったりと、まひろの気分になって自由に写真撮影ができるコーナーです

まひろの成人式「裳着の儀」で使用された衣装も
きちんと紋や色、織までひとつひとつ意味があり、御目出度いお祝いの衣装なんだなとよくわかりました
またドラマ見返してみよう

天井には越前和紙が
見本を触ってみるとかなり丈夫でしっかりした紙です
自然な生成り色がとても優しい感じ
作り方や特徴をもっと知りたいな…今度は越前和紙の里に行ってみよう

さらに奥には「越前和紙 創造の洞窟」が
神秘的な場所だなぁ
全部で距離にして2000メートルの和紙が使われているそうです

奥の壁にある雪のようなドット、近づいてみたら全部メッセージを書いた紙でした
すごいな、みんなで作る作品というか
いいアイディアですね、楽しい

さらに奥に行くとあるのが「想創庵」
和歌が舞い上がったと思ったら、月が登ったり朝日が出てきたり
雅さと越前の自然がコラボした幻想的な光景でした

最後に来館記念証をもらいました
越前・武生、楽しかったな~
大河ドラマだけでなく、今後の国府の発掘も楽しみですし、和紙・越前刃物・箪笥など伝統技術についてまだまだ見たいところ・体験したいことが新たにふえました
今度は天気のいい武生に来たみたいな~


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