大切な人を亡くした。
2020年に入り、最愛の祖母を亡くした。
小さい子供みたいにワンワン泣いた。辛かった。案外、頭で思ってるより、書いたほうがスッキリするように人間できてるのかもしれない。心の中の声を、絡まった糸をほぐすように、ぽつりぽつり吐き出してみる。夜寝れない日を過ごすくらいなら、吐き出してしまった方が、精神衛生上良いのかもしれないね。
自分の感情をまとめる作業が今の私に必要でした。だから、わたしは最愛の祖母に関してnoteにありのまま残しておこうと思います。
死別は人が生きていく上で経験するかなり大きな絶望だと思う。何度か経験して慣れるものではないし、人の死の乗り越え方なんて未だにわからない。
祖母は、苦労人だった。
戦後の暮らしが厳しい時代に、一眼カメラ、油絵、盆栽、茶道、華道などの芸術をよく好んだ祖父は、奔放すぎるぐらいの自由人で、多趣味に好き勝手にやっていたらしい。そんな祖父は、40代半ばに肝臓と腎臓に病気が見つかり、臓器という名のつくものすべて、どんどん弱ってしまったそうだ。祖父は、20年?ほど人工透析で管に繋がれた。あれほど好きだった油絵を描くための筆を握れるような握力もなくなり、こんな管なんて要らない!と引きちぎった時も祖母がずっと隣にいた。
私の記憶の中の祖父は、病室で横たわる弱々しい彼だ。
自分で起き上がることもできず、たくさんの管が、骨と皮だけの腕から繋がれており、機械によって「生かされてる」祖父が怖かったのを覚えている。祖父があんなに力強いタッチの油絵を描いていたなんて、信じられなかった。「孫の中で一番おじいちゃんに似ているね、絵が好きなとことか。」と言われても、その時はその意味がまったく分からなかった。想像もできなかったのだ。
祖母の看病むなしく、私が12歳の時に祖父は薄暗い病室の一角で息を引き取った。祖母が祖父にかけた言葉は、「長い間、よくがんばったね」だった。祖母は心で何を思っていたんだろうか。祖父の冷たい身体を、冷えきった額を触って初めて、人の死というものを幼いながらにも実感した。
あれから、15年。祖母は心臓発作で亡くなった。生前の祖母は、祖父の看病のために生きてきたせいか、一気に老け込み、一気に痴呆が進んでしまった。孫たちの顔と名前もどんどん分からなくなってしまったし、10分前に食べた朝ごはんをまた食べようとし、何度もお風呂に入ろうとした。
会うたび「あなたの孫だよ、おばあちゃんわかるでしょ?」と聞いても、姉の名前を言われたり、他人だと思われたりした。おばあちゃんはボケてたけど、ボケていたことも含めて好きだった。名前や顔を間違えても悪びれもせず、遊びに行くといつも一緒にお話をした。祖母には孫たちへの底知れぬ大きな愛があって、会うたび「べっぴんさんになったね〜」「留学の試験通ってよかったね!」とたくさん喜んで、褒めてくれた。孫たちが帰るときは寂しいのか、記憶が一瞬戻るのか、「もう少しいてよ、お願い」と涙目に言われたこともあった。
そんなこともたくさんあったよね。書きながら辛くなってきた…
帰国したら、祖母はもういないんだ。
その事実が、ただ、ただ、辛い。心がこんなに痛むくらいなら、祖母のいない日本にいっそのこと帰りたくない。
祖母のお葬式のために一時帰国した私は、とんぼ返りのように、タイの日常に戻った。無神経に日本の葬式について聞いてくる上司や同僚もいたし、新型肺炎で世間はごった返していたし、友達の悩み相談にも乗ったりしてるうちに、毎日に身を任せるようになった。
県庁に行って、タイ人の笑えない冗談に乗って、辛すぎる飯を食べて、うっすいタイのビールとウイスキーを飲んで、周りに迷惑かけないようにしなきゃ、と。そうこうしてるうちにここ2カ月間寝られなくなった。寝付けなくなったのだ。気づくと2時間ほど寝ているが、寝た気がしなかった。
その時は理由が分からなかったが、今思う。
「あぁ、わたしは、人が死ぬのがトラウマになるくらい怖いんだ。自分の周りの人が、自分が海外にいる間に亡くなってしまうのが。どんどんいなくなってしまうのが怖いんだ。」と。
そうやっていま感じてる自分の気持ちを認め、受け入れたら、いくらか楽だった。まだ辛いけど。
今の自分の気持ちを肯定していく難しさに、皆さんはどう向き合ってますか。
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