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~生石神社~神様の住む家を造っている途中だった!?

突然ですが、石の宝殿と呼ばれる日本三奇の一つを知ってますか?

石の宝殿は生石神社(おうしこじんじゃ)という兵庫県高砂市にある神社に

御神体として祀られているものです。そもそも日本三奇とは何ぞや!?ということですが、江戸時代に医者橘南谿(たちばななんけい)さんが記した書物の中で紹介されたことから「日本三奇」と今もなお言い伝えられています。

橘南谿

日本三奇は生石神社の石の宝殿以外には、

天孫降臨の地、高千穂の山頂に突き立てられた、【天の逆鉾】や宮城県の鹽竈神社の末社にある四口の神竈があります。

日本三奇の内容がわかったところで、さっそく石の宝殿を紹介します。
石の宝殿がある生石神社は兵庫県高砂市 宝殿山の頂上付近にあります。
神社の下についても、そこからの階段がまたえぐいったらなんのって!
とにかくのぼるのぼるのぼる…その代わり登った後は絶景ですよ。

ここから石をどうやって…

生石神社の創建の起源は古く推定では古墳時代にさかのぼります。

御祭神は、おおなむちのみこと と すくなひこのみことです。
拝殿の奥を進むと、日本三奇である石の宝殿を見ることができます!

はい、どーん、どーん、どぉぉぉぉん

石の宝殿

もう!めっちゃおっきいのなんのって!!

3方が断崖に囲まれ、池の中にでーんっとあるんですよ

サイズは、横6.4m、高さ5.7m、奥行き7.2m 重さは推定500トン

大きすぎて画角にはまらない…

もうバカでかいの、バカ重いの何のって!!

大きいし重い石ってのはわかったと思いますが、

この石…違和感ありまくりですよね

あふれ出る人工感…

おまけに何かついてる…これが作られたのは1300年前だと推定されています。

この石の宝殿、社伝によると何と!神が作ったとといういわれがあるんです。

神の作ったもの!!何かすごい…神が作ったものが今も残っているなんて…もう、よだれものですね。作った神は御祭神のおおなむちのみこと と すくなひこのみこと。
この2柱が国土経営のため出雲から来て石の宮殿を造営しようとして一夜のうちに石の宝殿を作ったんですね。

しかし、麓の里で地元の神様である阿賀の神(アガノカミ)が反乱を起こしている。と聞いた2柱。
阿賀の神の反乱を止めることに奔走することを選んだため、宮殿の工事は中止されました。
そして石の宮殿は横倒しのまま起こすことができなかった。

しかし二神は、宮殿が未完成でもここに鎮まり国土を守ったという話が伝わっています。この石の宝殿はまだ製作途中であり、しかも横向きだったということです。

そう言われると横から出てる三角形のものは屋根にも見えてきますね。たまたま寄って、ここの岩を作ったのにも何やら理由がありそうですね。
実は、生石神社の近くには竜山石採石遺跡があります。

この遺跡ですが、生石神社創建の古墳時代から現代に至る1,700年間、竜山石を採石した形跡が見られる日本屈指の採石場なんです!

2014年には国の史跡にも指定されました。古代以前の採石遺跡としては、初の国指定の史跡なんですよ。

竜山石は加工に適した柔らかさがある反面、強度と粘りがあって火に強いという優れた性質をもってるんです。
この竜山石、日本でも様々なとこに使われています。

古いものだと、大阪の仁徳天皇陵の石棺、奈良時代の平城宮の礎石、姫路城の石垣、皇居吹上御苑、国会議事堂さらには三井住友銀行大阪本店ビル、名古屋市公会堂の外壁など長い長い歴史の中で多用されてきました。

国会議事堂

話は石の宝殿に戻ります。

石の宝殿、別名があってその名は【浮石】です。この石は、底の部分が岩盤の間に亀裂が入っていて中央の支柱状の部分が巨石自体の死角になり、巨石が池の上空に浮かんでいるように見えるからだそうです。

浮いているように見える

ちなみにこの石の周りにある池も不思議ないわれがあって、

潮のみちひきによって池の水量も変化するといわれています。何とも不思議ですよね。
神の創作物だといういわれもある、巨大な石造物の石の宝殿いつ、だれが作ったのかというのが実は地元の風土記に残されています。

神が作ったんちゃうんかい!というツッコミは一度心にしまっておいてくださいね。

石の宝殿が記録に出てくるのは奈良時代に書かれた播磨国風土記

原の南に作石(つくりいし)あり。形、屋の如し。長さ二丈、広さ一丈五尺、高さもかくの如し。名号を大石といふ。伝えていへらく。聖徳の王の御世、弓削の大連の造れる石なり。

と記載がありました。

作り石は石の宝殿、形が家のようだという表現もありますね。
場所や大きさも生石神社の御神体を指しています。

このことから奈良時代にはすでに存在していたということがわかります。
ではこれを誰が作ったのかということについて風土記を読み解くと、聖徳の王の御世つまり聖徳太子の時代ゆげのおおむらじは 物部守屋だと言われています。

物部守屋の時代と聖徳太子の時代は少しずれているので、矛盾は発生していますが、播磨国風土記にはこのように書かれているんです。

では、なぜ作られたのかと言うと、ずばり古墳に使おうとしたのではないかという説があります。

最終的にはこれを引き起こして使うつもりだったようです。

こんな500トンもあるバカでかい石を!?とおったまげますが、職人技をなめたらいかんぜよ!と怒られそうです。
てこの原理を使ったといわれています。掘り方を工夫して、支点を中心にする。中央に支柱部分があるんです

そこを中心にして掘り進めたらある地点に達したところで石の宝殿が

起き上がるという仕組みです。

生石神社って山の上にあるんですよ、階段もたくさん登るし…あそこをごろんごろんと石が転がせば麓の方に運ぶことはできたんじゃないかなぁとは思います。

石の宝殿に似たものが奈良県橿原市の竹やぶの中にあります

益田の岩船です。

益田の岩船

屋根があるところや大きさなんかは石の宝殿とそっくりです。

古墳に使おうと思ったといわれるゆえんは、横口石槨(よこぐちせっかく)と言われる古墳スタイルと似ているからです。

奈良県明日香村にある牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)があります。斉明天皇のお墓だと言われている古墳です

石の宝殿も益田の岩船も未完成だと言われています。牽牛子塚古墳と益田の岩船の場所はまぁまぁ近いから、もしかしたら何か設計ミス等があって作り直したものが古墳に使われた可能性も高いのかなぁ推察できますね。

そうなると、石の宝殿は天皇級の権力者のために作られたものだと考えられますね。そんな一大イベントな大きさの岩がなぜ…放置されちゃったのか…

職人が何か私たちにはわからないようなミスがあったのか…。それとも運ぶのが難しすぎたのか…色々な理由が考えられますが、政治的な理由もあるのかもしれませんね。

結局は真相解明までは至っていないってとこです…。神が作ったものというところから、実は職人技が光るものだったという説まで様々な意見が専門家の中からも出ています。

ただ、人工的に作られていること、作られた時代は7世紀が濃厚だと言われています。石の宝殿を一つとっても、これだけロマンがあるのはおもしろいですよね!

今回は、神様が作った神殿!?生石神社にある石の宝殿を紹介しました。
絶景と大きな宝殿を眺めて、その時代に想いを馳せるのもいいですね!

動画で見る場合はこちらからどうぞ!


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