ミスター村上とボストンの伯母
村上春樹氏が居たウェルズリー大学で2023年春学期を過ごした「わたし」の記録です。
1.伯母の町に春樹が来る
「私には母の姉にあたる伯母がいるの。ねえねって呼んでた。オレンジのラパンっていう車に乗ってる、まつ毛がくるんと上がったひと。車に乗ったらいつも『ラパパパパパパン、不思議な笑顔♪』って歌を歌って、前方のミラーにかけた匂い袋が揺れてて。ラックには、ねえねが好きな槇原敬之のCDが数枚入ったケース。マイケルジャクソンも好きで、スリラーを流しては怖がる私を笑ってた。何より凄いのはね、ねえね、本を読むの!よしもとばななと、村上春樹。そんなに本の虫って訳じゃないんだろうけど、大人の女の人の家に本がある、ってだけで、ねえねはこの本を読んで悲しくなったり嬉しくなったりするんだなって思ったら、それがすごい嬉しかった」
「で、なにがいいたいわけ?」
「セシル、私にとってあなたがその叔母みたいだってこと。」
彼女はニマニマとして唇を近づかせてきたので私は叫びながらテーブルによじ登った。
ウェルズリー大学にはたくさんの未婚の叔母がいる。ドイツ語とイタリア語と中国語と英語が堪能な叔母、私を初めてストリップクラブに連れて行ってくれた叔母、使用済みのゴムを結んでオーナメントにしている叔母、禁煙にいつも失敗している叔母。叔母たちはいつもねじれの位置から私をインスパイアしてくれて、私はいつも沢山の愛と小さじ1の羨望とひとつまみの嫉妬でついて回っていた。
セシルがキャンパスを去った今になっては、彼女のキスを受けておけばよかったと思う。もしそれを受けていたら、ミスター村上の到来にも私は強くいられたかもしれないから。
村上春樹がキャンパスにやって来るというメールが届いた時、私の世界がひっくり返っても、いつものようにキャンパスは静まり返っていた。「所詮アジア人の作家だよ?誰も興味なんか持たない」叔母2はつまらなさそうにいちごを口に運んだ。キャンパスの大多数は無関心で、興奮しているのは彼が有名作家だと知っているごく一部のアジア人と、ごくごく一部の日本文学好きだけだった。私にとってはそんなことどうでもよかった。世界で1番有名な日本人が来る。名が知られる、とは「その声が価値があるとされている」「声をきいてもらえる」ということである。世界で1番世界から声を聞いてもらえる日本人が自分の声についてなにを考えているのだろう。彼のことを知りたかった。
同じ長崎の出身というだけでなく、常に腹を空かせているという点で春樹ではなく龍の大ファンだった。最後に春樹を読んだのは高校生の時。「僕は君に興味がないのに、君は僕に興味があるみたいだね」といった態度が好きになれずノルウェイの森だけ読んでやめてしまった。
日本文学を専門とする教授が村上春樹についての授業を開講してくれ、私の春学期は楽しく進んでいった。1人の作者の本を年代を追うように読んでいく経験は、叔母の本棚から「飛び出せバカラッチ隊」を盗み読む程度の文化経験の私に、読み方に対する自信をくれた。最初はただの「著名作品」として横たわっていた作品が、量を重ねることで作家の思考癖の露呈になる。図書館、井戸、森、動物。最初はただのモチーフだったそれらが、彼の見る世界では彩度が高いのだとわかってくる。読めば読むほど彼のことを生身の人間としてとらえられるようになった。その授業を受けているクラスメイトも大好きだった。たとえば他の授業だと「この同性愛の描写は完全に差別的だ!」と言う子が出てくるような場面でも、そのクラスだけは何故著者がそのような描写をしたのか冷静に分析する力があった。週に1冊ずつ課題図書が課されたので、狭いキッチンでキャベツを炒めながら、窓から白鳥を眺めながら、はたまた雪合戦をしながら叔母たちと村上春樹を読み、語った。彼本人はそこに居なくても、彼の影は、いつもニューイングランドの冬を耐えしのぶ私たちの真ん中にいた。
2.ジョセイガ、タノシイデース
学期が始まって1ヶ月がたった。「先生、ミスター村上はもうキャンパスにいるんですか?」「まだ到着なさってないわ。彼はとてもお忙しい中時間を割いてきてくださっているのよ。」叔母7が「大作家だもんね」と呟いた。日本のメディアでは彼が授業を受け持つとかいうニュースが流れていたが、実際限られた教授陣に対して数回セミナーを受け持っていただけで、教授は生徒が絶対に彼と接触しないようピリピリしていた。だから彼が渡米してきてからもキャンパスに姿を見せることは全く無かった。有名作家がやって来ると浮き足立っていたアジア人たちは彼のことなんか忘れて、私たちは暗くて冷たいセミナールームで彼の影を議論し続け、教授陣だけが「大作家」を守ろうと気を張っていた。
その日私は、平和学の授業からげっそりした顔でセミナールームに向かっていた。隣の生徒が1時間ずっと泣き続けていたからだ。ジェンダーの仕組みを再考しようという授業だったのだけど、その子はプリントが配られるや否や大粒の涙をこぼしはじめた。あまりに激しく泣くもんだから「差別的だ」「私たちtheyのことを正しく描写できていない」と繰り返すのが精一杯で、教授はただひたすらに謝って、授業が終わった。社会科学系の授業では誰かが傷ついて教授が平謝りして授業が終わることも珍しくない。声を聞いてもらえない人に「説明しろ」ということは暴力であるとわかりつつも、一瞬にしてthemの声を「聞かないと悪であるとされる声」にする緊張にどっと疲れていた。
ため息をつきながらセミナールームのドアを開けると、そこに村上夫妻がいた。1969年の東京がいる、と咄嗟に思った。無表情で2人並んだ夫妻は小さな「日本社会」を形成していた。
オドオドしながら席に着くと、困ったような嬉しそうな顔で皆が囁きあっていた。「はい、ミスタームラカーミが来てくださいましたよ!まずはこちらの自己紹介をしなくちゃね!エマ、なんであなたがウェルズリーを選んだのか話してちょうだい」エマは飲みかけていた水を吹き出して、サッカー推薦のアスリート枠で来たこと、それでも今はcsと日本語にハマっていて来年は留学をすることを不安げな顔で話した。ミスター村上は、床から数センチ浮いたところをぼんやりと見つめていた。
教授が日本語に翻訳した。「え〜と、カノジョは、サッカーが、好きデース。」すると彼は「ん?」とだけ言って、教室の空気が凍った。教授は「アー、ヨウコさん、タスケテ」と苦し紛れに助けを請うた。奥様が「サッカーが好きなんだって」と言うと、彼は突然スマイルを浮かべて「オー、アイライク、ランニング。アイランイン、ボストンマラソン」と笑った。皆は優等生的な笑みでニコニコっとした。
生徒がいかにウェルズリーがジェンダー包括的な環境かを話し、教授が「ジョセイガ、タノシイデース」と翻訳し、彼が「女性は最近頑張っている」とスマイルする。生徒が作品に頻繁に出てくる森のモチーフの意味について熱心に質問し、教授が「モリがありますね。作品に。どういうイミですか?」と翻訳し、彼が「アイラブネイチャー。」とスマイルする。そんなラリーが数回続いたあと、痺れを切らした隣の叔母が私の手を無理やりあげた。「教授、りんに通訳させてあげてください!」
30分後、「これ以上はミスタームラカーミが疲れてしまうからね、お身体は大丈夫ですか?」の一声で教授が夫妻を家に送りに部屋を出た瞬間、教室は今までにないほどけたたましく鳴った。「人生で1番居心地の悪い空間だった!」「なにあの態度!」「彼 “I don’t know” を言うためにはるばるアメリカにきたわけ!?」その口調には不満と、自分たちは今彼に不満を持てる立場にいるということへの優越感がにじみ出ていた。「まずはりんに拍手じゃない?」「あなたが居なかったら本当に耐えられないものになっていたわ!」皆が拍手をしてくれて、私はヘロヘラと笑った。私にもまた、怒りと悲しさと優越感が入り混じった感情が浮かんでいた。「みんな、最高の時間だったわね!」帰ってきたら教授が問いかけると、皆はぎこちない笑みを浮かべてコクコクと頷いた。胸と背中とお尻にデッカいタトゥーがあるくせに、うちの叔母たちにはこういうところがある。
「わからない」「おぼえてない」「理由は特にない」それが彼が語ったことの大部分だった。謎の多い作品を書く彼に一般人が求めるのは解説、説明、もしくは手順の解明である。「『これだけは、村上さんに言っておこう』と世間の人々が村上春樹にとりあえずぶっつける330の質問に果たして村上さんはちゃんと答えられるのか?」という本を彼自身出版しているくらいだから、彼は日本一、いや世界一人々が質問を投げかけたがっている人物かもしれない。
それでも、話を少し聞いただけで彼は意識でなく無意識を使って物語を描いているのは明らかだった。生きる中で無意識に何かを全身で拾い集め、無意識下でそれが絡み合い森を形成し、タイトルがふと浮かんだらそれに誘われるように森に入り、追いかけているうちに小説が完成する。だからこそ現世の言葉で質問を投げかけても現世に答えはないのである。彼は分析しない。メタ認知しない。村上春樹の世界を映すだけだ。それなのに、彼は皆が関心を持つ「村上春樹」であることをやめない。だから「質問はあるかね?」と椅子に座り、"I don't remember"を連発する。
彼が座ったふかふかの椅子を片付けながら、彼に抱いてはいけない感情を抱いてしまった悔しさのぶつけどころを探した。彼は、確かに老いていた。スマホを取り出し彼の年齢を調べた。74歳。長崎の母が今この瞬間も一生懸命介護をしている祖父と同じ年である。祖父や他の74歳がそうであるように、彼は耳の聞こえがかなり悪いようだった。私を怯えさせたのは、他の74歳がそうであるように、耳が聞こえていないということに気づいていない、焦りがない、或いは対処しようとしていない表情だった。生徒が数分話した言葉を教授が一文の言葉にして翻訳しているのだから、1000分の1に薄まった情報しか伝わってないことなどわかっていたはずだ。今、自分は相手の言葉を「聞けて」いないこともわかっていたはずだ。もしかしたらわかっていなかったかもしれないけれど。もちろん人の身体は老いる。だけど、心の老いも不可抗力なのだろうか?
彼は無意識下に全身で何かを拾い集める作家である。しかし聴覚が弱まり、無意識下に入ってくる情報が消え失せたとき、彼は壁の内側で何を思い、書くのだろう?
学長から届いた一斉メールが学内を大混乱に引き摺り込んだのもこの頃だった。大学を”Historical Women’s College”(歴史的には女子大学だった大学)に変えようという生徒投票に対し、「ウェルズリーは”Women”a College”であり続ける」とした彼女の宣言に生徒たちは激怒。キャンパスはレインボーフラッグで溢れた。教授も叔母たちの怒りに賛同し、デモのために授業を休むことが許可された。寮長から届いた「あなたが英語が母語ではないとしても、pronoun(she/he/they)を間違えることは決して許されることではありません。もし間違えたのならば、即座に私たちはそれを差別とみなします。」というメールは私を縮み上がらせた。もっと恐ろしかったのは、「失顔症で人の名前やpronounが覚えられない」と送った留学生のメールが本名と共に晒し上げられたことだった。
3.認知というコミットメント
そんなとき私を支えたのは、ミスター村上が近くにいるという事実だった。90年代、彼は「デタッチメントからコミットメントへ」という言葉を使い、「やれやれ」と放つだけでなく、社会に前のめりに関わっていく意思を示した。よく「ねじまき鳥クロニクル」の何がなんでも大切なものを取り戻そうとする姿勢が例にあげられるが、私が思うに、彼なりのはコミットメントが一番よく現れているのは、地下鉄サリン事件の被害者のエスノグラフィー「アンダーグラウンド」、阪神淡路大震災発生時に関西から遠く離れていた人々の葛藤を描く「神の子どもたちは皆踊る」、そして短編「貧乏な叔母さんの話」であると思う。彼のコミットメントの仕方は、世の中に無くなるべきものを批判し、主張をしていくというやり方ではない。誰もが忘れてしまうような些細な存在をあるものとして認識すること、忘れないことを彼は自分のコミットメントとして捉えているように思えた。
だからこそ、彼の作品と言葉は私にとって御守りだった。そこにいる小さな存在を愛するだけでいい。話を聞く耳を持ち、実行すればそれでいい。叔母の数人と話をすることが難しくなる中でも、春樹と心の中で話ができたら十分だった。
それでも、彼と話せば話すほど、私は悲しくなった。
今、彼はボストンの人々の生活の存在を認知しているとはとても思えない。もう彼にとって「認知」の季節は終わったのだろうか?壁の中に閉じ込められていながらも、若い頃に井戸を掘った「誰か」の影と対話しているのだろうか?それでも、日本を離れたということは、何かを「感じたかった」からではないのか?
彼はそのあと1回翻訳家のJay Rubinのセミナーがあったとき聴衆として最前列に座り、1回授業にゲストとして現れた。
セミナーでは、質問をするために立った私に教授が「りん、あなたは小説を書くのよね。どんなものを書くのか教えてちょうだい」と促した。著名な翻訳家や聴衆に自分の作品の説明をする緊張に加え、彼が私の方を振り向くことなく目を細めて遠くの方を見つめていたことに気が動転し、「I’m a contemporary writer!」と叫んでしまった。
2回目の授業では、最初から最後まで翻訳者として彼のそばにいた。奥様が「ハルキはさぁ、」と名前を呼ぶと彼の顔はいつも少しほころんだ。隣にいると、彼の大きな耳に自然と目がいった。彼は、生徒が話している間メモをとる私の手元、ではなく、手元の奥をぼうっと見ていた。彼に翻訳をしている間、私は絶対に伝わってほしい、と痛いほどの心を込めて言葉を慎重に選んで話した。わがままだと分かっていた。私はただの学生で、彼はやっぱりただの大作家なのだ。人には人のフェーズがあって、彼はもう外の世界と関わるまいと決めているのかもしれない。それでもやっぱり生徒の声と少しでも繋がってほしくて、言葉を選んでゆっくりと、大きな声で翻訳した。
かつてプリンストン大学でしていたようにオフィスアワーを開いてほしいと頼み込みに行ったがそれが実現されることもなかった。たまにポロっと「村上春樹に関する授業を取っているんです」とこぼしてしまうと、小説嫌いを豪語する日本人の知人が目の色を変えて「彼と個人的に会いたい。お願いだからメールを転送してくれ」としつこくラインをしてきた。授業中、教授は「最近彼のストーカーが侵入してきて、それの監視に追われて困っている」と愚痴をこぼしてきたりした。ただ時が流れていった。たくさんの人が大作家と繋がりたがっていた。
4.私の町を春樹が去る
学期も終わりに近づいた4月27日、彼が初めて大衆に向けて話すカンファレンスが開催された。英語が話せない日本人の記者が来るから案内して欲しいと言うことで案内係に選ばれた。黒人の生徒は蝶ネクタイのスーツ姿で建物を見張り、厳戒態勢が敷かれていた。受付をしていても、7割がアジア人、3割がお金持ちそうな白人といったところだった。学長や理事はキラキラの宝石をつけ、最前列に座った。
記者の方が到着し、またそこに日本社会が形成された。きっと彼は「村上春樹はアメリカで英語で流ちょうなスピーチをし、国際的な女子生徒たちはそれに心をうたれた」という記事を書くのだと思った。それでも実際は彼は教授にスピーチ全文の翻訳を依頼していたことを、案内係は皆知っていた。
控室にミスター村上がやってきた。急に背中がピキッと鳴って、今だと思った。
「あの、————————————————————————」
カンファレンスは、無事に終わった。叔母たちの感想を添付する。
叔母6:「生徒も教授たちも彼を完全にマスコットとして消費し続けていたよね。もっとイライラしたのは彼自身が消費されることに対し満更でもなさそうだったこと。」
叔母2:「『分析には意味がない』。『図書館は、ただの図書館なんだよ』。日本語のアクセントがひどすぎて何を言っているかわかんなかったけど、ここは気に入った。」
叔母3:「ウェルズリーに来た目的とか、得たこととかをしつこく質問してた生徒がいたじゃん、あれが1番キモかったかな。その行為に意味があるかなんて、今の時点では誰にもわからないじゃない。彼は『長らくコロナ禍にあって、久しぶりに海外に出てみたかったから』って言ってたけど、本当にそういう理由だと思うよ。彼は根拠とかにとらわれず、地球を浮遊する物体のようなものであるということなんて、彼の作品を見れば分かりきっていることじゃない。」
叔母7「彼が『Women’s Collegeに来たのははじめてで、女の子がいっぱいいて委縮してキャンパスにあまり来れなかった』っていったとき、もう真っ青になって息止まったよね。絶対誰かが『It’s not “Women’s” College !』って叫びだすだろうと思って。だけど一瞬静まり返るだけで誰も声をあげなかったから、ここの生徒も人を選ぶんだなって思ったよ。まぁ、”Girls”って言葉をあんなに使う時点で、彼は私たちの何も見らずに過ごしてたってことだよね。どれだけ何を見てようとも、ジェンダーアイデンティティっていう私たちのスピリットすら掴みきれてないなら。」
彼は、ステージがよく似合った。お辞儀をして、厚いカーテンの奥に消えていった。案内係の仕事が残っていたけれど、そのまま叔母たちと一緒に会場の外に飛び出した。彼を見るのはこれで最後にしたかった。
もうあと11日で春学期も終わり、村上は去り、ウェルズリーには夏が来る。
「村上春樹」はたしかにそこにいた。
私たちから見た彼は、まぎれもなく名誉と権力の象徴としてキャンパスに迎え入れられた。彼の望むものはきっと大抵思い通りになったし、彼の周りは彼をずっと丁重に扱い続けた。それもそのはずだ。だって彼は大作家なのだから。有名になるということは、声を聞いてもらえるということは、そういうことなのである。能力がある、力がある、名声がある、とはそういうことなのだ。世の中の摂理なのだ。それを理解しないと、大人になれんのだ。
彼自身は何を見ていたのだろうか?もしかしたら叔母たちの数日はシャワーを浴びていないべたついた髪をみていたのかもしれないし、彼が記憶を辿って小説を書く時「顔の綺麗な子がいた」と描写できるようにとメイクにいそしんだ私の臆病さ、歪んだ自意識を見ていたのかもしれない。周りを気にしない叔母、そして彼という「文化的」「上」の存在に惹かれてしまう私の矛盾を見ていたのかもしれない。まあこれも、彼の嫌いな『分析』でしかないのだけど。
聞こえない耳と万全ではない体調を抱えながら、アメリカに来た。丁重に扱う周りに意見していろいろ見てまわろうとする気持ちも、わからないところを聞き返す体力もない。翻訳で薄まったひとびとの言葉を、ぼうっと聞いている。名誉、権力、承認欲求、そんな便宜で回る社会を憎んではいるが、実際にそれを強く忌避することはできないほど、有名になってしまった。メディアは断るが、実は社会に対して気持ちを述べるのが好きで、人々も大作家の意見だ、と便宜的に素直に喜んでスマイルを浮かべて拍手をする。人々が聞くのは自分が答えを持っていない質問であると知りつつも、質問を受け入れて、「わからない」と回答する。ありのままの「認知」をするとしたら、彼はそのような不器用な存在であった。私は彼がわからなかった。
そもそもこんなに日夜村上春樹に翻弄されていたのは私だけだったんだと思う。皆撮影禁止のルールなんかを無視して #Murakami と共にインスタに会場の写真をあげただけで、もし彼とどこかですれ違っても気づかないだろう。皆にとって彼は大作家であり、それ以上でもそれ以下でもないからだ。その反面、私は叔母たちに比べてやはり弱かったし未熟だった。私と彼の間に隔たりがあること、彼がウェルズリーの生活と全く交流していないこと、彼が小説の彼とは違うことに折り合いをつけられなかった。
作品を読みながら、何度も自分に問った。「私はミスター村上の何になりたいのだろう?」友達?弟子?日本語の翻訳を丁寧にしてくれる生徒?考えても考えても答えは出なかった。
カーテンの奥に消えていく彼を見たとき、私は彼の何にもなりたくないのだと気づいた。私は、誰のものでもない私の人生を生きるのだ。
私は彼の作品を愛した。
作品に表れる葛藤は、もしかしたら彼のものではないかもしれない。ただ、生きる中で彼の身体にまとわりついたものが勝手に物語をつくった、それだけかもしれない。それでも、あの言葉を人生の一地点で綴ったのはまぎれもなく彼なのであるし、そういった意味で彼に失望する必要性は全くない。彼の言葉をお守りとして運び続けた時間はいまも私の心の中で息づいている。
彼の愛おしい言葉によって自分自身が構成されたことを、もっともっと誇っていいし、もっともっと愛していいのだと思う。だって私は、彼が死んだ後も長く長く生きていくのだから。
村上への整理された愛とぐちゃぐちゃな愛と憎悪を抱え、また今日も朝が来る。私はセシルの、叔母たちの、ミスター村上の、なににもならない。