変わりゆくモノと変わらないコト
桜の花が終わりかけている。
開花や満開に至るまではあれやこれやと騒がしいのに、それがまるで忘れ去られてしまったかのように感じてしまう。
もちろん、花が開いていく時の期待感や、ピークである満開が少しでも長く続いてほしいと思うのは私も同じで。
ただ、葉桜や新緑の葉に木々が埋もれて色彩が変わりゆく様子を見るのも意外と楽しめる方で。
時間が立ち止まらず、流れるように。
変わっていくことも美しいと思える感性が備わっていて(いつ備わったのかははっきりしないが。)良かったと思う春の日。
そして4月も中旬に差し掛かり、気候や職場等での環境変化に疲れが出るものこの時期。
特に部署移動もないのだが、やはり新入社員の入職に伴い若干の仕事内容の変化があり、‘‘普段通り‘‘というものが難しい近頃。
一言でまとめるならば、‘‘いつもよりストレスがかかっている‘‘ということだろう。
仕事場の関係上同職種のスタッフが2人と少ない私の職場。
今年は違う職種の新人スタッフを、私の職種の観点から仕事を教えるということになっている。
早速だが職種間の違いを踏まえて仕事のことをどう伝えるか?という壁に直面している。
ふと考えてみると、前の職場でも同職種の後輩の指導しか行ったことがなく、いかに共通言語があることや共に時間を共有し価値観のすり合わせを行うことは、仕事を円滑に行う上で非常に重要なものだということを再認識している。
職種も違う、共に過ごした時間も短い若手スタッフとどう接すればいいのか…と考えていた矢先。
PICU 小児集中治療室というドラマのスペシャルを観た。
ドラマの内容はさておきとさせていただくが、主人公や主人公の先輩、上司の後輩指導がとてもゆるっとしながらも、要所を抑えているように感じた。
他愛もない会話を行い、思うような反応が得られなくても深追いせず。
自分たちの手の届く範囲では自由に決定権を与え、間違えた時にははっきり的確に相手に伝える。
そのあとのフォローも忘れずに、だ。
コミュニケーションスキルの高さと指導力、そして人間力の凄みを感じた。
中でも後輩の研修医たちが、自分の非を認めず逃げようとするシーンはくっきりと明瞭に思い出される。
なぜなら、間違いや自分の非力さを認めることの恥ずかしさと向き合わなければならず、人間として試されているような気持になるからだ。
それと同時に、最近読んだ一穂ミチさんのスモールワールズという小説のこのようなセリフが脳裏に浮かんだ。
‘‘「理由とか原因を他人に紐づけてると人生がどんどん不自由になる。」‘‘
個人的には、間違いや弱さを認めずとも日々は続いていくし、そうしたいのであればそうしても良いとは思っている。
人間は弱くどうしようもないほど独りよがりな生き物だから。
しかし、人は決して一人では生まれてくることはできない。
そして一人でも生きてはいけないから。
その代償は人生をかけて付きまとってくるものだとも感じており、いつかは対峙しなければいけない問題となるのだろう。
話が少し脱線気味になった気もするが。
春は期待や希望が膨らむ反面、疲れやストレス、普段と違うことで悩んだり…と混ざり合って目まぐるしく過ぎていく季節。
背伸びせずに着実に、一歩ずつ自分をアップデートさせていきたいと思う社会人9年目のスタートである。