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2025.1
一月。
年明け早々、風邪にやられた。
37.5〜38.5度間を10日間いったりきたり。風邪を引いてしまっていたけど、仕事に応募する予定を立てていたので無理矢理に自分の身体を起こして取りかかる。今思えば発熱に始まり応募に必要な書類等の準備をしている間に絶え間なく起こった小さなトラブルたちは、やめておいた方がいいよって言ってくれていたのかも。
それでも、周りへ及んでいるであろう迷惑も見て見ぬふりして、実行してしまう。
結果も残念だった。
そのあとは私が人にかけた迷惑を反省する日々。サボってしまった現実的な労働の皺寄せもあとからどんどんやってくる。
自分が落ちた穴に人を巻き込み道連れにしようとしまっていたことに気付く出来事も起きたりした。こうして言葉にすると沈んだ身体にさらにおもたくのしかかる。それくらいしないと図々しい私はまた同じことを繰り返してしまいそうやし。
大切なものを失ったり、じぶんで壊したり
そんなことをしてまで得たい、とか
知りたいことって本当はなかったのかもしれない。
pick up
-a day
1/28
突然、家のインターフォンが鳴る。良い予感も悪い予感もなんにも無く、宅配便でも近所の人でも子どもたちでも無さそうだった。
出ると誰も居ない。今時ピンポンダッシュ?とは思ったが特に何も感じなかった。
数分後、もう一度鳴る。すぐに出るが誰も居ない。すると角の向こうから声が聞こえる。
ハラダサンだった。
娘にせんべいを届けに来た、と言いつつ、夏以降顔を出していなかったので心配して私の様子を見に来たらしい。せんべい要らん、とは言えないので有り難い風に受け取った。するとタバコ買うから二千円貸してくれという。
せんべい買わんとタバコ買えよ、とお土産を持ってきてはお金を借りて帰るハラダに毎回同じことを思うしたまに言うのだけど、なぜかハラダには貸してまう。
ハラダに初めて会ったのは私が大学生の時。大学校内で、関係者でもないハラダがいきなり声をかけてきて、金貸せと言われたから一万円貸したのが良くなかった。それから15年間ずっと貸せる時には貸している。そして毎回欠かさず返ってきている。
なんでこのタイミング?って思うタイミングでハラダはやってきて、思わぬ一言でついうっかり私はちょっと泣いてしまった。
ハラダサンはちょっと泣いてる私を見て無表情のまま口にも出さずにいたが「おもろいもんを見た」という顔をしていた。あちこちで言いふらすかもしれないし、意外とそういうことには繊細で誰にも口外しないかもしれないがどちらも想像がつく。やってしまった、と思った。悔しい。
-本
はーばーらいと(小説) / 吉本ばなな
あまりにも、このときの自分の状況、感覚がこの小説とシンクロしていたので一年ぶりくらいに再度読んでみた。
両親を助けるために宗教に入り、一度入ってしまうと出てくるのはかなり困難だがその中で自分を保ち続けた主人公は外からの手助けのおかげでなんとか脱出できた話、と書くとなんかちょっと(ちょっとどころか全然)違うのだが、主人公とその友達のやりとりと状況も含めて、感覚的に自分の実体験と被ったのだ。私はここまで自分を保てなかったので引き戻してくれた人のおかげ。私はなにもしていない。
-歌
play a love song / 宇多田ヒカル
"終わり" を "これからはじまる" に置き換えてくれる歌。おかげで前向きになれた。
-映画
・港に灯がともる
・大きな家
港に〜は「血のつながりはあっても葛藤すること」を描いているとしたら、大きな家は「血のつながりがないからこその葛藤」を描いてるみたいだった。同じタイミングでこの二つを観た私にはちょうど対極に感じられた。でも、両者とも、家族とは、血のつながりとは、子どもから大人になるということは、を考えさせられる作品だった。
これから自分のために月に一回書いてみようと思う。
そしたらぐちゃぐちゃの頭の中がすこしずつ整理されてくかも、と思って。
書けなくなったときは、きっと幸せになれたときだと思う。でも、書くこと自体も幸せ。
また来月。