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言葉にもたせたものが消える


「なんでこう思ったの?」と聞かれることが正直すごく怖いことだなと思う。話すことが苦手な訳ではないし、寧ろ話すことによって己の思考の整理にも繋がり、知見を広げることに繋がるためそこに問題はない。自分から常々考えていることを発信するならばそこに恐ろしさは発生しないが、誰かと一対一で話し、そこで共通の話題の中で相手が思ったことを投げ掛けられるというのがどうも苦手だ。

自分だけならば勿論自分主体で居られるし、そこに誰かが入ってきたとしても主導権の手綱は自分にある。ただそこに人がいると知覚した上で話を進めるというのが気に食わない。
圧迫面接のようで、期待された、用意された言葉を一つ一つ丁寧に拾って、それを繋げて繋げて自分の言葉のように伝えなければならない。自分の些細な言動でこの人はわたしから離れていってしまうのではないか。何か的はずれなことを口走ってしまって、また失敗するのではないか。期待されているであろう答を汲み取ることができなくて、何も考えていない、中身がないという烙印を押されてしまうのではないか。と、ぐるぐると同じような思考ばかりが停滞する。

質問した時、大抵質問した側がある程度相手のことを予測していると思う。きっとこう返してくるだろう、少し変化球も考えておいてもこのくらいだろう、などおそらく推量しながら聞いてくる。それに反したことを言ってしまったらどうなってしまうのか。考えるだけで恐ろしく、どうしても怖じ気づきながらの返答になる。
特に答えが明確にあるものだと、尚のこと言えなくなってしまう。「わたしはこう考えこう間違いました」という馬鹿を晒すような気持ちになる。説明するために時間がかかればそれは増していき、こんなにも言語化したのにわたしは間違えている/こいつは間違えていると捉えられてしまう。

そんなことばかり考えて本当のこともそのうち言えなくなってしまう。
いつか、ろくに答えも出せなくなってしまうのか。そしていずれ普段の何気ない会話でも、わたしは人への為の言葉を使っているはずだったのにいつの間にか自分を守るための、そこに伝えたい気持ちなど含まれていない言葉ばかりで取り繕ってしまうようになるのか。そのうち自分が持たせたかった思いもそのうち封じ込めて消えてしまうのか。


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