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2015.2.24 父(生物学者)との会話その後

「落ちてしまいそうなほど高い空だ」と思う。

私はいつも足元ばかり見ている。
家から出ることが少ない。出ようと思わない。出たいと思わない。
きっと「内」は守られていると思うから。外は放り出されたような気になる。
少し怖い。
のみこまれてなくなってしまいそうな気がする。

私はいつも足元ばかり見ている。
外へ出ても。空を見上げることはあまりない。
足を見ている。地面を踏ん張る自分の足。
足を見るようになったのは人の顔を見られなくなったから。
私を責める人の顔、罵倒する人の顔、自分の拗ねた顔、歪んで泣きそうな顔を見られたくなかったから。

風景を描くときだって空は描かなかった。地を這う木の根を描いた。
脈々と根付いた木の足元。

空は好きだ。
雲の形も、空のうつしとれない青色も。
だけど何もない空を見ると心臓が早くなる。
美しことに感動してるだけじゃなく怖くなるから。

落ちてしまいそうだ。
のみこまれそうだと思う。

あんな高いところにあるのだから「落ちる」わけはない。
でも「落ちそうだ」と思う。
空を眺めたときに頭に浮かぶのは天地が簡単にひっくり返るイメージだ。
「ひっくり返る」と思って空を見るから「怖い」と思う。
父なら「ひっくり返るはずがない。『そういうもの』だから。」と言うのかもしれない。
「命を生きることに、意味や存在理由を考えたって仕方がない」と言う。
「だって生命や生物は『そういうもの』だから」と言う。

でも私はどうしたって考えてしまう。
意味がなくて絶対に起こり得ないことを考えてしまう。
「そういう風に」私は出来てしまったからだ。
考えないことが出来ない。

考えることをやめたらきっと私は死ぬ。
考えることをやめることは私にとって生きることをやめることだ。
「ヒトはー生物は、生まれたら子孫を残すために子どもを産み、生命活動をする」「そういうもの」だと。
だから死ぬことを考えない。より良く生きるためにどうしたらいいかを考えるのが父。

私は、みんながみんなそれだけで生きるのなら、「私」は必要ないのだと思う。
人類というレベルで生死を考えていない。
「私」が「私」として生きるにはどうしたらいいのかを考える。
人類としての「私」は必要ない存在だ。
ヒトの数は十分足りているし、むしろ多すぎる。
だから「私」一人、一個体が死んだところで何も損害はない。そう思う。
こういう思想や前提が私を「ネガティブ」の軸においている理由の一つなのかもしれない。
私がかつて思い描いていた死は「増えすぎた生命体」のうちの一個体の喪失。
何者にもなれなくて多数の一つにしかなれない苦しさから「私」を個として救ってくれるものが「死」だった。
「私」が「私」として意味をもてる方法だった。
「死を選択する」という私の意志がある限り「私」が「私」として存在できると思っていた。
そう考えると「死を想うこと」は全くネガティブだけじゃなく、ある意味でポジティブなのかもしれないね。
10代の私は、「私が選択する・自分の意志をもつ」というところに難しさと悩みをもっていた。

考えても仕方のないことを考える、それが私なのだと、それでいいのかもしれない。
ずっと父は私にとって絶対的だったけれど、私と父は違う個体で違う意味をもっている。
父は父、私はこういう私として認めたらいい。

私は考えても仕方のないことを考える。
でもやるからには徹底的に考え抜くがよい。
そうしなきゃ絵が続けられないぞ。進化できないぞ。

考える限り、私は私で在り続けられる。
思考を止めるな。
でもそれは、歩みを止めることとは別義だ。
歩みを止めて思考すれば良い。納得いく形になるまでこねていればよい。
一つ出来たらまた歩く。きっとそれでよい。

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かどかわまほこ
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