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伝えるということ


まゆめもを復活して色んな想いを赤裸々に綴るようになり、昔から見てくれているコアな方達からわざわざインスタでメッセージをいただいたり、
近しい友人から連絡をもらうようになった。

誰に宛てるわけでもない、備忘録のようなこの場だけど
ありがたいことに、伝えたい人には「伝わった」実感があります。


実のところ、昔からよく「伝え方が上手い」と言ってもらえることが多いのだけど、
今日はそれについて話してみたいと思う。





「伝え方が上手い」

とは、一見褒め言葉のようでいて、
嫌味のように向けられることもある。


仕事上では「私がいくら言っても変わらなかったのに、まゆさんが言ったらすぐ聞いてくれるよね。」という上司に対しての不満と共に向けられる言葉や、
「まゆちゃんが言わないと変わらないから、やってほしい」と頼まれたことも何度もある。

つまりは誰か対象の人が私のことを「ひいき目で見ている」という類の意味合いで、こういうこと言うと性格悪いかもしれないけど、ちょっとひねくれた方向から半分諦めのような雑な言葉を私に投げる人もいた。


「いいよね、甘え上手で」

「いいよね、言うこと聞いてもらえて」


実際にこんな類の言葉を、身近な家族から受けたこともある。



だけど、そう言われる時に 私の中で毎度思っていることがある。





(そうは見えないのかもしれないけど、)

すごく、すごく気をつけているし

すごく、すごく意識してやっています

 と。



こんなこというと、計算高いとか、要領が良いとかと捉えられるかもしれないけど、


自分からのアクション(話しかけたり、お願いしたり)を
受け入れてもらうための、

タイミング、 間合い、 声色、 表情、
言葉使い、 相手の心境、 相手の理解力や情報量の察知、 そして順番。


これらを、めちゃくちゃに考えながらやっている。



自分の中で、たとえばプライベートで受け入れてもらいたい事象があるときには(あそこに行きたい、これが欲しい、こう言ってほしいなど)

相手が受け入れやすい環境作りや、空気作りからまず始めるし、
言うタイミングや、その人の心地よい言語(ワードチョイス)で話して
そこに自分の想いを乗せることをとても意識的にする。


仕事で受け入れてもらいたい事象があるときにも(協力してほしい、交渉や、プロジェクトの推進など)

相手の状況をまず知ることから始めて、受け入れてもらえる余白作り、気持ち作りをこちらも協力して行ってから、伝える。


「こんなに言ったのにわかってもらえなかった」
「何度も言ったのに動いてくれない」

という現象が起きたときに、たとえば私が言われた事のあるように「あの人の言うことは聞いてくれるのに」と人のせいにしたり、「あの人は本当に分からずやだ」と相手を否定するのはとても簡単なことだけど、
そんなことしていても”自分の仕事”は進まない。

自分ひとりで進める仕事、そしてひとりで生きていけるならそれでもいいけど
そうでなければ、受け入れてもらう力がないと進まない。
ひとりで抱えることになり、大変なままだし、頼れず、いっぱいいっぱいになる上に誰かに評価されることもない。


そしてそもそも、「わかってもらえなかった」「受け入れてもらえなかった」と感じるその多くは

伝えた気でいるだけ

だと思っている。



「伝える」「伝わる」は大きく違い、

こちらから想いやお願いを”投げただけ”では「伝える」にしか留まらず、一方通行、いわば自己満足の状態。

相手がどう受け取ったか、こちらの意図通りに解釈してくれたのか(通じ合ったのか)、確認作業を終えて、初めて「伝わる」に達すると思っていて、


よくある 言った言わない 論争は、その最終確認ができていない事が原因で、一方もしくは双方が「伝えた気でいる」になって起きるのだと思う。


私の中のルールでは、
「分かってもらえなかったのなら、それはこちらの伝え方不足」だ。


だから、もし自分が以前言った事を「聞いてない」と言われたのなら
それはその人にとっての聞いてないという事実であるということを認めて、
どうしたら「(その人にとって)聞いてもらえるか」を再度すごく考える。

そして再び伝えたら、こちらの意図通りに伝わったか最終確認をして
できれば証拠をとる。(怖)

お互い、こう言い合って理解し合ったよね という証拠さえあれば
もしそれでも忘れられたり、また「聞いてない」と言われたら
そのときは怒る 😤。
人間だもの。ないがしろにされたと感じたら悲しくて怒りになるんだよと伝える。


だけど本当にそれらは簡単ではなく、
人は千差万別、十人十色で、
その分の「伝え方」があるのだと思う。

人それぞれ理解力、情報量、語彙力、歩み寄り力、置かれてる環境、なにが好きで、なにが不快か、そして性質、性格がまるで違い、
それらをこちらから理解しようとしないことには
伝え方を変えることもできない。


そして大前提、人間というのは受け入れてもらえると嬉しいと感じる生き物であり、
その嬉しさや安心をまずこちらから与えることがとても大事で、

そのひとつの方法が、普段からの細やかなコミュニケーション、会話のキャッチボール、自分はこういう人だよという自己開示、自分にとってあなたは大事な人だよという肯定姿勢なんだと思う。

それが構築された上ではじめて相手に「この人は解ってくれる」という安心感が生まれ、
そこでやっと「協力してあげたい」とか「この人のために動いてあげたい」と思ってもらえるものなのだと思う。




人は変えることはできない。



だけど人は伝わった時に心が動く。



心が動いた時にだけ行動が変わるのだと思う。




そして「伝わる」ということはこちらの意図を汲み取ろうとしてくれた相手の努力や、こちらを向いてくれた先にあるものだから、
それを決して当たり前だと思わないで、きちんと感謝をする。

それくらい貴重でありがたい事だから自分のわがままで人を試してもいけないね。


だから、こうしてこの文章を読んで、
あなたに「伝わった」ものがあるのだとしたら、
私の力だけではなくてあなたの受け入れる力であり、
汲み取る力の偉大さのおかげでもあります。



「末っ子は甘え上手でいいよねー」なんて

僻まれたり、羨ましがられたこともたしかにあるから
決して「がんばってる感」は出てないのかもしれないけど

こんなこと自分で言うことじゃないと思いつつ、あえて言います。




がんばってます。

(きっと世の末っ子もがんばってるよね)




がんばってる。

そうはっきり言えるくらい、人と人とのコミュニケーションってすごく複雑だし大変です。



だけど少なくとも私はひとりでは生きていけないし、
人に頼って、ときに甘えて、ときに協力してもらいながら生きていきたいのです。

だから、自分も人の役に立つように、与えられる人でいたいと思って
これからもその努力は惜しまないつもりです。


そして「伝える」を仕事にしている今、これからももっと言語化できるようにがんばろうと思う。


じゃ、おやすみん。 (終わり方雑だな)


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