「出会い」は「私自身」|にしな「It’s a piece of cake」
好きな曲の詞です。
寂しさの余韻を感じさせるメロディ、
ニュアンス的な詩、
曲の世界観にマッチする歌声…
先日、この曲についての記事を見つけました。
私は、この文章にとても共鳴しました。
なんと表現するのがいいのか、
とにかく心の奥底が喜んだのです。
今日は、そのことについて
書いていきたいと思います。
相手のことを100%理解なんてできない
どんなに近い人でも、私たちは
相手のことを100%理解なんてできない。
それでも繋がりたいと思うのは、
人間は群れの生き物で、
もともと共感したい生き物だから、ですね。
想いを重ね合わせられた時、
一緒だねを感じれた時、
つながりを感じれた時、
私たちは幸福感を得られるもの。
でもだから
違いがわかった時、
別々に進んでいく時、
ひとりを感じる時、
切なさを感じるのです。
その感覚をきっと誰もが
無意識の中で知っているから、
情景を思い出しては
切ない気持ちになる。
にしなちゃんの声は、
聴き手の無意識に
それを訴えたのかなと感じます。
出会いが私を作る
「分人主義」という思想をご存知ですか?
芥川賞作家の平野啓一郎さんが唱えられた思想です。
この思想は、過去から現在までの
「出会い」そのものが「私」である
というもの。
人や音楽など、関わる数だけ
自分の中に個性を持っていて、
それは出会いによって更新していきます。
「私」は人や物によって引き出される、
そんな思想です。
つまりこれは、一つの「私」である
ということと考えられるわけです。
「音楽を通して重ね合わせれる想い」
との出会いが自分自身の一部。
共感によって引き出された一部の私。
確かに、にしなちゃんが歌うように
「私たちは相手のことを
100%理解することはできない」し、
「それぞれが違う昨日を
積み重ねながら生きてきて、
明日からまた違う人生を生きていく」もの。
それは確かにとても切ない。
だけど、一瞬の共感と出会うということは
新たな自分との出会いであり、
同時に自分を肯定できる要素の発見へ
繋がっていくと思うのです。
「こんな自分もいたんだ」
そんな自己理解です。
出会いを大切にすること自体が、
自分を抱きしめてあげられる材料になると感じます。
私たちはそれぞれが《一人》
2020年の世界的病の大流行を経て、
私たちは「社会の中の私とは」という
広い意識へ向かっていくと言われています。
いわゆる「風の時代」。
SNSと共存する日常になり、
情報に翻弄されてしまいそうな時代になったな
と日々実感しています。
自分とは、一体何なのだろう。
何か小さなモヤっとしたものが
一度心の中に現れると、
そのモヤがみるみる渦を巻いて
モヤモヤになっていく。
そして、それが解消されなかった時
「自分」もしくは「誰か」に牙を向けたくなる。
怒りをぶつける対象を間違えると
何かが壊れてしまうかもしれません。
結果、自分が傷ついてしまうこともあります。
出会いそのものが私自身。
そんな時に思い出したい言葉、と感じました。
それに気づいた時、
改めて聴きたくなる一曲です。