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あさみのマジックアワー 〜朝を見る夢を見る〜

こんばんは、あさみです。

今回から、あさみのマジックアワーと題して、わたしがこうして今ここで、あなたと相対するに至った過去を少しお話したいと思っています。

ところで、マジックアワーってご存じですか?
この記事のヘッダーの画像もいわゆるマジックアワーを表現したものです。綺麗ですよね。

マジックアワー (magic hour) は、日没後および日の出前に数十分程体験できる薄明の時間帯を指す撮影用語で、光源となる太陽からの光線が日中より赤く、淡い状態となり、色相がソフトで暖かく、金色に輝いて見える状態である。

ウィキペディアより

なぜ、過去を“マジックアワー”と表現したのか?
お話ししたい過去というのは、その時の心情だけで言ってしまうと、正直その美しさとは遠く、明るいものではありません。

過去の経験が華々しいからマジックアワーと名付けたわけではありません。
むしろ、感情だけで言ってしまえばその逆かもしれません。
暗くて鬱積していて、先が見えなかった。

だけど…

人生は先が見えずにもがいた過去によって一番美しくなる。
少なくともわたしはそう、信じています。

あなたと過ごす今は、彩り豊かな夜に思える。
いくつもの色が混在して、そこに万華鏡のような無限の模様を形成する。
薔薇色も、澄んだ水の色も、みんな詰め込まれた“夜”なんです。
その夜が、何によってきらめているのか…

「あ、マジックアワーだな」
って、思ったんです。

人生の中できらめきを集めた、わたしという存在を後ろからきっと輝かせてくれている時間。
だからマジックアワーと名付けました。

これから、ふと気が向いたら。
過去のわたしについて少しずつお話させていただく機会をつくりたいな、なんて思っています。
こんなところまでわざわざわたしの話を聞きにきてくださるあなたにお付き合いいただけたら、とてもうれしいです…!
あなたとの今が、もっときらめきますように。

さて…
第一回目の今日は、母との関係についてお話ししたいと思っています。
わたしという存在を語る上で、切っても切れない話。

みなさんは、お母さんとの関係はいかがですか?
もういないという方もいらっしゃるかもしれませんし、毎日お会いしているというような方も、いらっしゃるかもしれませんね。
良好か、そうじゃないかという、心でしか測れないベクトルも、きっとみなさんの心の分だけ、その答えがあるように思います。

わたしはと言いますと…
決して良いとは言えないと思っています。
でもそれが、悪いのかと言ったら、
わたしは、そう単純な話ではないとも、感じているんです。

母は、昔から人に認められやすい人でした。
誰しも聞いたことがある航空会社に勤めていて、国際線で世界を股にかけていました。休みの日は家に帰ってきて、自分が家を空ける間に家族が食べるご飯の作り置きをする。7〜8日家を空けて、帰ってきたら2日休み、その間に次の7〜8日の作り置きをします。家で持ち帰りの仕事をすることも多く、よく部下指導で悩んでいた様子でした。

退職後はマナー講師をして、いまも現役です。地元のメディアにも取り上げられたりして、それなりに活躍しているようです。
昔から、仕事で貯まるマイルのようなものを活用して、わたしたち家族をよく海外旅行へ連れて行ってくれました。
そんな最中にも、わたしにテーブルマナーを教えてくれたり、他人から見たら、よくよく助かる母だったのだと思います。

“マナー”をはじめとした、人の世の決め事に、異議を申し立てたいわけではありません。
平たく見れば、知っておけば身を助けることだらけです。
母が当たり前に口にすることが、知らない間に自分の基準値を上げるきっかけになっていた…というようなことも、きっとあったと思っています。

感謝なら、していないわけではありませんでした。
でもわたしがもっと、一番思っていたのは、「もっと休んでほしかった」ということ。

家族分の食事なんて作らなくてもいいから、自分のために休む時間を過ごしてほしいと何度も願いました。
そう伝えたことも、何度ともなく。
子どもながらにお手伝いをして負担を減らそうとしたことも、ありました。
でも、止まってはくれなかった。

社会から定められた“こうあるべき”という指標を母が追いかけるたびに、なぜだかどうして、母としっかり目が合わなくなっていったように思うんです。
母が言っていることは、きっとテストの優良な答えになる言葉たちだったのでしょう。
それを言っていれば、世の誰かからわかりやすく咎められることもなく。
だけど、母はそれを“誰かの目を見て”言っていたのでしょうか?
わたしにはどうしても、“答案用紙を見て”話しているように見えてしまいました。

ひとつ印象的だったのが、部下のひとりに「問題児」がいると言ってわたしに相談してきた時のことです。当時わたしは13歳で大した判断能力なんてなかったはずですが、一通り話を聞く中で、なぜか「この部下の人に問題があるのでは無い」と感じて、むしろ母の固定観念に縛られた見方の問題のように感じました。
その時はちょうど読んでいたEQ(心の知能指数)の本を紹介して、わたしの直感は伝えずに終わったのですが、その時感じた母への違和感は、思えば最初の気になるしこりのようなものだったのかもしれません。

「こうするといい」
「こうしておけば、文句は言われない」

だけどそこに、相手や自分の心は介在しないことが多く、形だけを追いかけるように整えて、それでよしとする。
その先で何を成せばよいのでしょう。
形だけを急いで整えただけの状態は、本当に自分自身だと言えるものでしょうか?

わたしは心で人と相対したい。

くり返しになりますが、マナーなどがいけないと言っているのではないのです。
相手の個性がわからない時、文化が違う時に、社会で広く認知されているマナーやプロトコールを大切にすることは、きっと人を大切にすることにつながるでしょう。
わたしも、精進して学びたいと思うことばかりです。

しかし、相手の目を見ず、呼吸を共にしない形式だけを詰め込んだことを、わたしは優先させたくなかったのです。
母には、生き急がないで、一呼吸置いてほしかった。

細かな違和感の粒が日常的に無数にあって、それがいつしか、心の排水溝から上手く流れなくなっていって。
詳細を書くとただただ長くなるだけなので端折りますが、必然的に、わたしは母から距離を置くことになっていきました。

大学に進学し実家を離れてからも、大切な話を、心を込めてしに行くこともありました。
母の日頃を思っての贈り物も。

そのやりとりの中で、どうしてもどこか、母が現実の目の前にいるわたしとは目が合わないで、空に描いた理想だけを追いかけているような感触は、わたしが就職をしてからもずっと消えませんでした。
面と向かって話せば話すほどに、そのギャップは大きく開いていくようにも感じました。
回を重ねるごとに、わたしは少しずつ諦めていきました。
端的に言えば、「話が通じない」といった感触。

わたしは母に、一言一言をゆっくり受け取ってほしかった。
叶うならば、わたしが伝えるに至った言葉たちの経緯とか、心に焦点を当ててほしかった。
でも、母はあくまで、母個人の見方や考え方の枠を出ることはなく、わたしの方を見ることは無かった、という感触だけが残るに至りました。
それでも、きっと、ゆっくり時間を置くことで何か解決に結び付くはずだと信じ、わたしは言葉を渡しては待ち、態度を見せては待ち…ということを繰り返すことにしました。

そんな母との関係にはっきりと亀裂が見えたと感じたのは、母がわたしに縁談を持ってきた時でした。
お医者様との縁談でした。

わたしが母と同じように、形だけを求められる人だったら、その時の母に感謝できたのかな。

でも、わたしの心は傷つきました。母が、わたしそのものを見ることなく、お医者様の孫を産む娘を欲しているように見えたからです。

思えば小学生低学年の頃、仲良くなったクラスの男の子と遊びに行こうとした時「〇〇くんは、長男?次男?」と聞いてきました。「次男だよ」と答えると、「それならいいわね」と満足そうにしていました。冗談めいた雰囲気ではなく、至ってまじめに。

当時は意味がわからなかったのですが、要するに、わたしに婿を取らせる気だったのでしょうね。
わたしを手元に置いておこうとする発言は、これ以外にも何度も何度も聞きました。わたしが好きになる人じゃ駄目なのかな、と子ども心に思ったものです。

伝えてきたつもりだったわたしの価値観、ひいてはわたしと言う人間がどんな人物か、という情報はきっと重要ではないようで。
そういった母の思考が見える言動に、自分自身を否定されるような感覚にもなり、わたしの心は限界を迎えました。

もちろん母の中に、わたしを思いやる心が全くなかったとは言いません。
親としての心が、母にそうさせたのでしょう。
年齢のギャップで捉え方にも差があるのかもしれません。

だけどそこに、“わたし”の意志や意思が、あったのでしょうか?せめて、心の声を聞いて欲しかった。

わたし自身が自分の心で、欲するものを感じ取り、人を愛し努力をしなければ、わたし自身が幸福になることなどあり得ません。
与えられた枠の中で、お手本を真似して形式だけの呼吸をするわたしのことを、本当のわたしとは言えないと思うのです。

わたしはその点にこだわりたかった。
人の美しさは、それぞれが違った形をしている点ににあるとわたしは思っていて、それぞれが持つ違いを尊重したいと強く願っています。押しつぶされてはいけない。

与えられたレールよりも外を歩いていけば、傷つくこともうまくいかないことも、さまざまな思いがあるでしょう。
だけどそれこそが、わたしの人生を彩り豊かにしてくれるもの。
わたしの心をつくり、色を塗ってゆけるのは、わたしひとりなのです。
そしてみなさんも同じ。それぞれが違う彩りを持つ。それぞれが違う形だからこそ美しい。

母には未だにこの部分は伝わっていないなと感じています。
相手があってのコミュニケーションなので、急いではいけないのでしょうけれど、わたしにとっては核になる考え方なので、なかなか辛い部分でもあります。

でもだからこそ、こうやってアウトプットしたかった。いまわたしの近くにいてくださるみなさんに、わたしのことを知ってもらえたら嬉しいなと思いました。

拙い文章なのに、こんなところまで読んでくださって、本当にありがとうございます。
わたしの夜にたしかな彩りを灯してくださるあなたに、心からの感謝とできる限りの愛を。
どうかこれからも、わたしと一緒にこの夜に夢を見てくれたら…本当に幸せです。

ではまた、次の夜お会いできたら嬉しいです。
感想などあればぜひお聞かせください。こちらにコメントいただく以外にも、XのリプライやDMでも大歓迎です!

あさみでした♡


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あさみ
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