今日の私がなぐり書くネガティブnote
心のなかのモヤモヤが晴れなくて誰かに聞いてほしいので書くことにしました。
「わかってほしい」「認められたい」欲求
うまく言語化できない
私はもともと喋るのが好きだし、たぶん言葉が好きなんだけど、
頭のなかがごちゃごちゃで自分の気持ちや考えをうまく言葉に整理するのが苦手なんだろうな。しかも練習もしてないからできない。自業自得かい?
辛いな~って思ったときにそのキーワードで検索かけて、私の辛さに近いようなことを(知らんけど)他人の私が分かるように言葉にしてる記事を読むと、辛さと安心感が同時にくる。そして辛さが勝ってそっとページを閉じる。
中高生のときから、自分のことを分かってくれる人たちがずっとそばにいてくれたので、感覚とかフィーリングをそのまま言葉にしてしまうのが22歳になっても続いている。
あとは大学生になって日本語ではなく中国語をメインに使うことが増えたことも影響してるのかも。これは言い訳かもしれないです。「言語ができても話す内容がないと意味ないよ」を、ちょっと違うけど思い出す~~。
シンプル、話す相手がいない
いや、いるんだよ。友達も家族もたぶん、「話したいので時間をください!」と言えば親身になって聞いてくれる人ばかりで、本当にいつもありがとうございます。
しかしながら私自身、彼ら・彼女らの時間を奪ってまで聞かせられる話があるわけではないんですね。彼ら・彼女らにも、私がまったく知らない現実と日常があるわけで、そこにわざわざ私が入るのってどうなん?(これは「私の日常に入ってくるな」という裏返しでもあるのかもしれない)
そして、彼ら・彼女らが何か自身の意見や考えを語ってくれたとしたら、「なんでわかってくれないの!」「そうじゃない!!」「そっちの意見は聞いてない!!!」「結局だれもわかってくれない!!!!」となるんだろうなと思うし。怖。
でも「ただ聞くだけ聞いて下さい。意見は求めてないです。」っていう前置きをして話すのって、なんか……こどもなの?(そうだよ!認めなよ!)
いいねやマシュマロで反応がほしい
noteにしろなにかしらのツイートにしろ、「推しがカワイイ・カッコイイ・尊い」とか「思考の整理がしたい」とか「こんなことがありました」「なんか考えました」っていうのがあって書いてるんだけど、
いざ公開ボタンやツイートボタンを押すと、その気持ちが全部タテマエのように感じられて、なんか反応がほしくなっちゃうんだよ~~~。誰か共感してほしくなっちゃうし感想がほしくなっちゃうの~~~。
この表面上の(といいながら実は闇が深そうな)承認欲求が満たされていないこともだけど、この欲が自分にあること自体がかなしい~~~~~~
このなぐり書きnoteですら、スキがもしついたら嬉しくなっちゃうんだと思って本当にね~ 何やってんですかね……。
同時に感じる「全能感」と「無力感」
頑張って書いたけど妥協した卒論が評価された
私は、講義を取ったこともなければ担当教員の専門範囲でもない領域で、自分が書きたいテーマを勝手に決めて、論文や本を探して読んだり一切触れたことのなかった統計を見よう見まねで触ってみたりして、一週間くらい前に卒論を一旦書ききった。
つまりは私がこの大学で学んだこととは(系統としてはもちろん同じなんだけど)関係のないことについて、勝手に先行研究をまとめて勝手に調査して勝手に考察を書いて、論文の体裁風の文章をしあげた。
その中で正直、「この議論も考慮しなきゃいけないかな」「こういう資料でこういう反駁できそうだな」って、書いてる私自身ですら思う点もいくつかあって、
でも、「(私の目から見れば、今書いている内容から判断すると)ちゃんと筋道は通ってるし、学科に提出する卒論だし、というか、どうせ私以外あんまり読まないから私の自己満足にしかならないんだし、いっか」って思っちゃってたんですよね。甘ったれている。
そしたら担当の先生が、私が書いた内容と近い専門の先生数人にも見せてくださったらしく、その先生方から「よくかけている!」と評価をいただき、「前回見た時は学科の紀要に載せるのはどうかな、と思っていたけど、もしよかったら、専門誌に投稿してみませんか?」みたいなお話をいただいてしまった。
もちろん、修正等はきちんとしなきゃいけないけど、学科の先生方が協力してくださいます。という、すごくありがたいお言葉まで。
たぶんこれが、私が4年間大学で勉強したことの集大成的なもので、全力で一切の妥協もなく書き切った成果だとしたら、も~~~~~めちゃくちゃ嬉しかったことでしょう。いくらでも自慢げにひけらかすわ。
でもちがうんだよ。私が頑張って書いたそれは、所詮「素人が数ヶ月間、なにかの片手間だけれども必死になって書いた、本人ですら欠陥があるとわかっているような文章」なんですよ。かなしい。
そんな文章が認められるはずもないんですけど、ほんっとに認められたくないんです。何かの間違いだとしても。私なんかが手が届かないところ、雲の上に、「専門家」がいるんだと思っているんだろうな。
学部で海外を選んだことへの後悔
私は自分が思っているよりも勉強が好きだということに気付くのがおそかった。そしてその好きなことを楽しむために選ぶべきだったのは、ここじゃなかった。
前提として、18歳~22歳という4年間を海外で過ごしたこと、過ごせたことに対しては、経験や価値観の上で良かったなと思うことももちろんある。ありがたい。まあ、この4年間を日本で過ごしていないので比較のしようはないんですが。
それを後悔するというよりは、「学部生」としての4年間を、結果として「母語でない中国語で学ぶ」あるいは「自分の興味と完全には一致していない領域のことを学ぶ」ことに費やしてしまったことへの後悔がスゴい。
興味のあることは、自分で本を読んだり記事を探したりして学ぶことはしているし(とはいえそれすら言い訳をして先延ばしにしている自分には反省してほしいと思う)
それに留まらずコミュニティや勉強会を探して自分でつながりをつくっていくことももちろんできるんだろう。分かっています。できるよね。
……できるんだけどさ。私はやっていなくて、それを自分が選んだ環境のせいにして(環境を変える努力をしているわけでもない)、
去年とっていた講義で感じたワクワクや、学外の友人と話しているときの心ときめく感じを、もっと大学で感じたかったと思ってしまうんです~~。いろんなことを話しあって、学んで、もっと深みのある人間になっていたかった。
考えれば考えるほど自分の今を放棄してておもしろい。人生で一番若いのは今だよ、to私
院進して学生で居続けたいと思ってしまう
学部への後悔から、もう一度学部に入り直す?と考えたりもしたけど、いやいやそれなら修士をとりたい。と思ったりもして、
でもさ、学びたい!じゃあ、ハイ、修士!っていうほど簡単なものではないのかなと感じるし(マジ知らんけど)(試験的にも人生的にも)というかもっと何が学びたいのかを明確にする必要性も感じている。
いや、てか私はもう来年4月の就職先が決まっているし(しかも、とてもとてもとても行きたい会社!!!!!!!)、親にもう金銭的に頼りたくないという気持ちや、はやくビジネス的なところに関わりたいみたいな気持ちもすごくある(就職先以外は、院進したとて叶えられることではあるのは分かっています。←ほんとか?)
なので、就職して、もっと勉強がしたくなったら、そのときまた考えよう。と思ってた。勢いで生きてきた(?)私が、今、勢いで「院に行く!」って言えないということは、今はまだ時期じゃないんだと。今が一番若いんだとしても、いったん今じゃない、と。
そしたら、卒論を専門誌に投稿しませんか?のお話をいただいたときに、「大学院で研究を続けるなら大きなアドバンテージなります」と言われて、
修士への気持ちがまた再燃してしまった~~~~~~~。まあこれは、私の中で折り合いがつけられそうな目処はたっているので、つらさというよりは考えたことを書いておきたかっただけって感じだけど。
家族にネガティブなきもちを抱きたくない
言葉にするともっとつらくなってしまいそうだからあんまり書かないというか書けないけど。
私は価値観として、たぶん、「家族みんな幸せでいてほしい(私がいなくても)」があって、それが成立しなさそうなのを感じると嫌な思考の嫌な人間になってしまうのがつらい。
なんで1歳しか変わらないのにこんなにちがうの?
私が大切にしたいもの、必死になってきたこと、守っているつもりのことが、兄とはほんとに全く違う気がして、だけど別の人間だから違ってあたりまえだから私の考えを押しつけることは絶対にしたくなくて、けどそうじゃなかったら(私のロジックでいうと)傷ついてる人がいるということに、ほんとに気付いてないの?何でなの???????????ともやもやしている。
そして兄はめちゃくちゃ愛され気質(雑概念)なのでうらやましい。私も私と兄なら兄を好きになるよ。シンプルにそこを妬んでいるのかもしれない
依存しているのか、されているのか
私はずっと私が母に依存していると思っていたんだけど、実はそうじゃないのかもしれないという疑いを抱いてしまっている自分すら苦しい。
どこまで何を考えなきゃいけないのか
アイドルのキラキラ性だけを見つめたい
私の推し遍歴、ジャニーズ(小中学生)→KPOP(高校生~大学生前半)→ちょっとだけ乃木坂(1年前の数ヶ月)ときて、半年前くらいにジャニーズに戻ってきた。
そんで、音楽にしろバラエティ番組にしろ雑誌にしろ、いろんなコンテンツを楽しませていただけるわけだけど、
企画とか言葉づかいとか空気感とかに透けて見える色んな(社会の?)価値観が苦しいことがまあまあある。
けどそこの引っかかりも私基準だから(私には引っかからなくて他の人が気になるところももちろんあるんだろう)、見てみないと分からないというのがな……。
ただ楽しくお喋りしてるだけ~と思っていたラジオとか、音楽性について語ってる~と思ってた雑誌のインタビューで何かが心に刺さってしまうのは、ほんとに私が敏感すぎるんだろうなと思わざるを得なくて、でもそれを否定したい自分もいて。
結果、「すでに知っている曲のパフォーマンスをしている映像を永遠に見る」のがメインの幸せになっている。まあそれもいいよね。楽しいし。
ここの付き合い方はもうすこし自分でもちゃんと考えていきたい。
モノを増やしたくない・お金を使いたくない
引っ越しについて考えていると、そしてアイドルを応援することと「モノを買う」ことは切り離せないことに気がつくと、「買ったら(捨てるなり売るなりして)処分しなきゃいけない」問題にぶちあたって、その選択の苦しさを感じて「モノを増やしたくない」と思ったし、
就職先が決まったり、同級生の多くが働き始めたことがきっかけで、給料日ルーティンのvlogとかを見るようになってしまい、「お金って特に使う予定がなくても万が一のためには貯めなきゃいけないんだな…」みたいな気持ちになってしまって、今からすでに節約をしなければという気持ちが高まってきていて、
否定的・消極的な気持ちがほかの行動にも影響を与えているような気がするのでこれもじわじわしたつらさなのかもしれない。
国際情勢とジェンダーと目先の人間関係
ニュースや大学の講義で、こう…国際情勢についてとか、難民支援についてとか、数字として捉えられる人の命や、遠い世界が切り取られたように感じてしまう(私の不足な気はしている)具体的な話に触れたあとに、
LGBTQ+のウエディングだったり、いろんな制度面でのことだったり、犯罪や法律についてみたいな、日常で直面しうる、だけど想像力頼みになってしまうような(これも私の不足かもしれない。精進します)話に触れて、
さらにそのあと、バイト先で、私にとっては理不尽なことを気にしてないフリをしたり、場の空気を読んで円滑に~みたいなことを考えたりして、
いやマジでどうやってみんな日常生活の情緒保ってんの???頭も心もそんな切り替えれる???と思っている。どうしてるの?
おわりに
書いていたらすっきりしたので長文終わります。ここまで読んでくれた方がいらっしゃったら本当にありがとうございます。またネガティブかポジティブが溜まったら書こうかな~