明日死ぬと思って。いいや、明日も僕は生きています。
えーーと、
人が死ぬこと、てよくありますよね。
まあ身近な人はあまり死なないかもしれませんけれど、
それは母数が少ないからで、あなたや僕が若いからで。
実感しにくいってだけです。
意識的に見てみれば、
喪服を着た人、救急車のサイレン、とか、
確かに今日も死んでいるみたいです。
でも、どうですか? 死んでしまった彼らに気づいて、死を実感できましたか?
何かこう、心に迫る感じ、胸が締め付けられる感じがありましたか?
そう言う僕は、ありませんでした。
頭は(誰かが死んだ)と分かっているんですが、
体はたぶん分かっていません。
(死体がないからなあ。喪服は喪服、救急車は救急車。本当に人が死んだのか?)
と疑っているような、気がします。信じてない。
そういえば最近、俳優の西田敏行さんが亡くなられたみたいですよ。
僕の体はこっちの方が信じている気がします。
ウっと心にくるショックがある。
(この人はもう死んだんだ)
体がそう判断した気がします。
でも、どうしてでしょうね。
近くで人が死ぬより、遠くで有名人が死ぬことに心を打たれるのは。
少し考えてみたんです。
やっぱり僕としては、映像であれ本人を見ていることが重要なのではないかと思いました。死亡記事を発見する。想像が膨らむ。まずどんな顔をしていただろう。どんな風に生きていただろう。誰が悲しむだろう。この世界に今まで彼がいて、これからはいない。彼の分だけ世界に小さい穴が空く。例えば彼が座っていたはずの椅子がからっぽになる、みたいな。本人を知っているとそういう想像がしやすくて、心に、なにか影響があるんだろうと考えました。本当のところは知りません。
僕は、頭ではなく体で誰かの死を感じたとき、短いショックのあとに安心もするんです。
明日死ぬことってやっぱりあるんだなと。
明日死ぬと思って生きなさい、みたいな教訓があるじゃないですか。
僕はその考え方が好きだから、すこし意識しながらいつも生活しているんです。
そうするとたまに不安になることがあって、
今は楽しいけど、これでどうしよう? それから、どうしよう?
と思うのです。答えはいつも決まっています。
今が楽しい、明日が楽しい、それで終わり。それで十分。それ以上にはなんにもない。
というものです。
つまり、これが何の役に立つか? 何の役にも立たないよ。
と答えを出すのです。
それでも不安は残ります。
さっきみたいに、頭は分かってくれたけれど、体は納得していない。
そんな感じです。
そしてこの残った不安が、他人の死に触れたときに解消される。
だから、不謹慎にも安心してしまうわけです。
最初と同じ話になるのですが、
人が死ぬこと、てよくありますよね。
でも実感しにくくて、
僕も明日死ぬかもしれない、てことをときどき疑ってしまう。
少なくとも明日は生きてるよ、と本気で思う。
この確信が、他人の死に触れて少しやわらぐ。
僕は、何事もバランスが大事だと思うのですよ。
僕には少し、生が多すぎます。
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