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日記

じぶんをきらいになったひとがじぶんのことをおもいだす、その気配を不意に感じとってしまったとき、背中に冷や水をかけられたかのようにぴしゃりと、でもわたしだっておなじことをするじゃないかと責めたてられたような気がした。そのひとが振り返る過去は醜かったであろうじぶんの存在もふくめて美しくなっていく。おもいでは夜明けのようなあかるみで蘇る。魔法のランプがみっつの願いを叶えてくれるとして、わたしはそのひとに対して正しい相手と愛しあうこと・正しい相手と幸せになることをこれまで望んできたわけだけれど、みっつめに願うのは、もうじぶんのことは忘れてほしい、だなとおもう。わたしも忘れなければならない。枝で浜辺に書きつけた文字を足の裏で砂をさらさらとならして消すみたいに、そうしても消えないくらいに地面の深くまで文字が刻まれていることに何度も戸惑ったとしても。

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と、ここまで書いてパソコンをとじた午前九時、職場に持っていく水筒に麦茶を注ごうとしたらポットの蓋がきちんと閉まっていなくてびちゃびちゃびちゃと床にこぼれた。くるぶしの靴下にも麦茶はしっかりとかかり、でも履き替えるのが面倒くさかったからそのまま出勤して、いまも靴下は濡れている。冷房のせいでひどく冷たい。

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とてもよかった夜のことについてうっかりと口を滑らせてしまい、あ、汚したな、とおもったし、質問をされたり感想を持たれたりして、もう取り返しがつかない。大事なことほどじぶんの下手な口調で脚色したりせず、他人から感情を差し向けられることなく、胸のうちで、その瞬間の感触をそのまま、綺麗におぼえていたい。その夜一緒にいたひとはそうはおもってくれていないかもしれず、なんならただの酔っ払いの相手をしただけに過ぎなくて、もしかしたらこれは気色のわるいはなしだ。でも、あのときわたしは間違いなくこころをひらいていて、すごく楽しかったし幸せだった。

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左の鼻の穴の調子がわるくて鼻水がやたらと出てくる。そういえば副鼻腔炎を疑って耳鼻科に行ったときに、いやあ、きもち狭いくらいかなあ、お酒とか飲まはったら調子わるくなるかも、と医師に言われたのだった。いちおう処方された点鼻薬は一度も使っていない。点鼻薬のことは溺れるような痛みと喉もとに流れてくる苦みが嫌で、テンション下げ薬と呼んでいる。テンションがあがるお薬もそれはそれで困るのだろうけれど。

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ひとは温めあうことしかできない。冷たく感じるときは、おたがいの温度に差異が生じているのだとおもう。おなじ温度でみとめあい、おなじ強さで求めなければ、あなたはわたしのものにならないし、わたしはあなたのものにならない。こころもそうやって慎重にさわりあうもので、かんたんにわかりあうことなんてできないはずなのだけれど、ファストな世のなかがひととひとの関わりあいまでもをファストにできるふうに勘違いをさせる。だから、わたしはだいすきなひとたちにはきちんと会いたい。目をあわせて、たくさん話して、わかりたいとおもう。それが正解であってほしい。

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ついうっかりと呟いてしまった四文字のことばを冠する小説があなたがたの目の前に現れたとき、わたしはひとを大事にするということについてひとつの答えを出したのだと、そっとおもいだしてもらえたら嬉しいです。夏が終わったら戻ってきます。

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