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日記

やっているのかいないのかよくわからない近所のコンビニがなくなった。ぐずぐずとしたなんでも屋ゆえにぼんやりとしたブティックも併設していたドラッグストアという名前のコンビニは、電気がついているのはわかるものの薄暗くて、とても儲かっているようにはみえなかったしよう潰れんとやってんなあとさえおもっていたのだけれど、いざなくなってしまうと惜しい気がしてくる。コンビニのマークだった蛙は外壁から撤去されて、蛙のかたちをした白い痕跡が残っている。あのコンビニの前には避妊具の自販機があって、わたしはそれを物語のように気に入っていたのだけれど、次に入る店が決まったころになくなってしまった。写真に撮っておけばよかったなとだいぶ後悔している。通りがかるたびにshowmoreの「1mm」の〈0.01mm6個入りのsafe loveと/2つの缶ビールを買って/君の家に向かうよ 少し早足で〉という歌いだしをおもいうかべていた。二番の歌詞のほうが顕著なのだけれど、愛しあうためにふたりを隔てるもの、のイメージにぐっとくる。触りたくても触りきれない感じ。セックスは愛情表現、のまえに、おたがいが別々の人間であることを認識するための行為とおもう。世界にはじぶん以外の人間が存在して、ひとりきりで生きてゆかないようにするための、一種の知恵だ。コンビニの跡地にはごはん屋さんが入るらしい。自宅を出て信号を渡らなくてもいいところにあるので口に合うものだったらいいなとおもう。
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年の暮れからオンラインでの集まりに積極的に参加している。世界のがわの不健康がはじまったころはなんとなく億劫で手を出さなかったけれど、いざやってみると家を出なくてもひとと会えるのは楽だなあとおもう。とくに所属している結社の句会やイベントは東京開催が主だったのでオンラインのほうが顔を出しやすくて便利だ(関西句会のほうは、二〇二〇年から参加するぞ! とおもっていたところでこの状況になって、あわあわと参加しそびれつづけている)。それから友人と友人の友人たちで集まって「Among Us」という人狼ゲームをやるようになった。知らないひとと上手に話せるだろうかという不安は一瞬で消えて、楽しくやっている。アイドルマスターシンデレラガールズのライブもオンラインで配信されるようになって、無観客の会場にはVRで装飾が飛び交い、当日以降も一週間観ることができて、外のものを生活に受け入れることによって家の居心地がどんどんよくなる。未来を描いた作品に出てくる、話し相手たちの映像がぼわぼわとパソコンないし実空間に現れて直接会わずとも話すことができる、その物語がいま現実に迫ってきているようにおもう。もっと、慣れていくのだろうか。違和感なく使いこなす日がくるのだろうか。
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「なんの気分?」
「ううん、ラーメン?」
「り」
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休業要請もなくその期間がはじまって、昼間はこれといって変化を感じていなかったのだけれど、夜、夫と所用の帰りにラーメン屋さんで持ち帰り商品を買おうと立ち寄ったらすでに閉店していた。禍だ、とおもった。職場でいまだに酷使しているWindows XPにさいきんのことばを覚えてほしくなくて、禍、という字は、禍々しい、と変換してから後ろ三文字を消している。
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「ドライブだねえ」
「楽しいねえ」
「寒くない?」
(——さんといっしょにいるから温かいよ、は現実ではやりすぎ)
「あったかあったか〜」
「え、あったかいの?」
「そんなに」
「なんやそれ」
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夜のスーパーは生鮮コーナーの食品がうんと少なくて、この世の終わり、といつもおもう。いきなりステーキ焼くか、と夫が言いだしたので牛肉を見にいき、けれどドリップが多いものばかりだったのでやめておく。じぶんでつくったほうが安いからという理由でふだんは見ない惣菜や冷凍食品やレトルト食品の売り場を眺めて歩く。惣菜の合鴨のロースト、東京の有名店が監修をつとめているレトルトカレー、冷凍食品のすき家の焼き鳥丼の具、横綱のラーメンセットを籠に入れて、籠に入れてからもどれを夕飯にするか迷いつつレジに進んだ。いつもは必要なもののリストをつくってそのとおりにしか買いものをしないからそれだけでわくわくしてしまう。夕飯はラーメンと合鴨にした。
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1/12 宇佐見りん『かか』読了
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この日記を書いているところに安野光雅さんの訃報が入った。どうか安らかに。高校三年生の暮れに『口語訳 即興詩人』を読んでいたら表紙を見た母が、この絵、知ってる、と言いだして、押入れをごそごそやって『旅の絵本』を持ってきた。このひとたちがな、ほら、結婚式、とページをめくり指をさし語ったあれは、おもえば母からはじめて受けた絵本の読み聞かせだったかもしれない。亡くなってから大事だったんだと表明するのは悔しいなとおもいつつ書く。故人のSNSアカウントにだいすきでした・ご冥福をお祈りしますと書き置くこと、なんでそんなことをするのかなと疑問だったけれど、いま書かないと今後書くことがないからなのかもしれない。とはいえ、生きているうちに大事なひとに愛していると伝えられたならどんなにいいか。ことしは些細なことでもひとに話しかけて、たくさん会話がしたいです。

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