2024.11.13の日記
夜。ほっともっとに、ネット予約をしたカキフライを受け取りに行ったら、自転車の前かごに入れたバッグからイヤホンが飛び出ていたみたいで、着いた頃にはイヤホンの線が前輪に絡みついて死んでいました。
いまだに有線のイヤホンを使っていることへの罰かと思いましたが、全部自分のせいであることは確かでした。大学の頃、同じ講義を取っていた知らない人が「有線のイヤホンを使っている時代遅れの人」をテーマに一本の短編を書いていて、もちろん有線イヤホンを余裕の現役で使っていた私は画面越しに(オンライン授業のため)結構ビビってしまったことを思い出します。もう4年くらい前の話。
Appleの純正イヤホン。白いビニールカバーがタイヤに削られて、中の線が剥き出しになってた。
受け取ったカキフライと、家族の分の牛すき焼き弁当をカゴに入れて、感電にビビりながら(多分しないの分かってるけど)、前輪に絡んだイヤホンだったものを知恵の輪みたに解いて、最後の「絡まったイヤホンを解く」作業を終える。まさかこんな形で終わりなんて、私もイヤホンも思っていなかったことでしょう。
すっかり変わり果てた姿が悲しかった。走っている最中にもっとピンチな絡まり方をして私もろとも大転倒する可能性も大いにあっただろうに、ちょうどほっともっとの前で気づかせてくれてありがとう。優しく止まらせてくれてありがとう。
それはさておきカキフライはめちゃくちゃうまかった。
カキフライって本当に好きだ。たまにしか食べないけど。
カキフライほどご飯がすすむものってそうそうないよね、と姉に言ったら、私はカキフライあんまり好きじゃない、と言われて衝撃です。カキフライのこと、みんなが好きだと思ってた。びっくりした。私はよくこうやってびっくりします。私はメンマもかなり好きで、メンマとかザーサイとかあの辺のものをご褒美ポジションに置いているため、大体の人が同じく大好きだと思っていましたが、別にそんなことはないらしい。そんなわけあるか! と思ったけど、ちゃんと考えれば全然あります。
自分と人がまったく違う考え方をしていると人に知らされるとき、なんだか嬉しいのはなぜだろう。自分が勝手に思い込んでいたことが、世界によると全然違うらしい。全然違うのは面白い。私としてはそんなことありえないので、世界から地味な裏切りにあった気がして、新鮮で面白いのだと思います。ことの地味さもツボ。
私はこう思うから、みんなもこうだろう。という思想はよくないものですが、「みんなもこうあってはくれないだろうか」くらいのことは考えてしまうのが私という人間です。
前者の主張に続くのは「私は嫌じゃないから、あなたも耐えてくれ」「私は別に気にならないのに、なんであなたは我慢しないの?」みたいな、最悪な思考回路で、それがさらに成長すると悪魔のような「私がこうだから、あなたもこうすべき」の花が咲く。「べき」が出てきたらもう終わりです、人間。人に対して「べき」なことなんて無いから。
苦労している人を側から見ていて、こうしたらいいのになあ…とか、勝手に思うことはあるかもしれない。けど、「べき!」と本人に伝えてしまえるのは、教授とか師匠とか、明確にその人を導く立場にいる人間のみで、それもその人がべきの導きを望んでいるときだけだと思っています。
「私はこうだから、みんなもこうあってはくれないだろうか」は、単なる願いで、祈りのようなもので、誰にも届かなくていいし、実現しなくていいものです。
それで私が学生の頃友だちに訴えた祈りは、「私は人の鼻毛が出ていても全然気にしないから、私の鼻毛が出ていても何も気にしないでほしい」、「私はあなたの鼻毛を受け入れるから、私の鼻毛も受け入れてほしい」というものでしたが、友だちは落ち着いた声で「それは難しいかもしれないね……」と、言っていました。
もしこれに水をやり続け育てていた場合、私は
「私はあなたの鼻毛が気にならないから、あなたも私の鼻毛を無視するべき」の花を咲かせ、身だしなみに気をつけない自分を正当化し、さらに相手にまで許容を強要する人間になっていたはずで、そうならなかったのは不幸中の幸い。
ネットなどで、生き生きとした「べき!」人間を見かけると、私の心にもべきの赤ちゃんが(鼻毛フォルム)いたことを思い出すのでした。
この日記を、今日、死んだイヤホンに捧ぐ。