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旅と巡礼

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近所だったり、ちょっと遠くだったり。旅と巡礼とは切り離せないもののようです。
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#歴史

ド・ロ神父の悪魔祓いー島田喜蔵神父の述懐ー

 先日の記事でド・ロ神父(Marc Marie de Rotz)の悪魔祓いのことを書いた。ド・ロ神父のこのエピソードは、教会発行の冊子、外海町誌、他いくつかの文献とも私がみたものでは、ほとんど同じ内容のことが書いてあった。  記事を書いたあと、その場に居合わせて、のちに司祭になった島田喜蔵神父の伝記をみつけた。もしかしたらド・ロ神父のエピソードがあるかもしれない、とおもって開いてみると、書いてあった。内容が他のものと少し違っているのは、伝記が書かれた時期がいちばん新しいから

プロフィルの断片

 台風が過ぎたあとで、いつかみたいにミルクティーのじゃない、今日の海はところてん色をしていた。 *  このところ必要な文章いくつか書いて、それの英訳のため下準備的な作業をやっている、そのことを何度かここにも書いているけれど、相変わらずそういう作業が続いている。  今日は、その作業から少し離れて(プロジェクトとしてはひと括りではあるんだけれど)別の調べもの、書きものを進めた。  手元にある書籍などといった資料の他に、国立国会図書館のデジタルアーカイブを利用しながら、きょうの

鄭成功をうんだ平戸の地はひっそりとしていた

 そういえば2週間ほど前、久しぶりに平戸を訪ねたんだった。  平戸市は県北に位置していて、長崎市内から行くとなるとまあ車を3時間弱運転しなくちゃいけなくて、なかなか行こうという気が起こらない。大村湾に沿って北上し、佐世保を抜けて西寄りに伸びた大きな島が平戸島で、平戸大橋を渡って島を目指した。  お尻がおもたかったけれど、しばらく訪ねていなかったのと、教会堂の写真でいくつか撮りたいものがあったので、行くことにした。やっぱり遠かった。  平日だったけれど、ちらほらと観光客の姿

西坂に行ったことと巡礼にまつわる疑問など

 西坂で処刑された日本二十六聖人、そしてその地を願望できるかつての外国人居留地に建つ大浦天主堂のことをこの間書いた。そしてそのうちに、とおもっていた西坂のその場所にさっそく行ってきた。  車を停めて、二十六聖人記念館前に公園として整地されている場所に立ってみたけれど、案の定目線を遮る建物が多すぎて、ここから大浦天主堂界隈はとうてい見渡せない。当時はこんなふうに高い建物はなかったろうから、目を凝らせばきっと見えたであろう。  今回は記念館やフィリッポ教会に入ることはしなかっ

まさに地獄といって過言ではない

 雲仙地獄に行ってきた。そういえば、ここに来たのは十数年ぶりだったと、ぼんやり考えながら歩いた。  今回もだけど、以前も仕事で訪れたのだった。  今年は梅雨入りがとても早く、雨続きなのにこの日だけ晴れていた。車を停めて、墳気が勢いよくあがる中を歩く。  体調のせいなのか、しばらくすると気分がわるくなってきた。あるいはここでたくさんの命が失われたからかもしれない。  雲仙は殉教地としても有名で、毎年『雲仙殉教祭』がおこなわれている(2020、21年は中止)。殉教について知

兵どもが夢のあと、原城跡

 長崎県の南東には胃袋のような形をした島原半島がある。その胃袋の下のほう、南島原市には歴史に名を残す「島原・天草一揆」の主戦場となった原城跡があり、海を挟んだ向かい側には熊本県の天草が見える。  原城「跡」というくらいなので城址、つまり天守もなにもなく石垣などの一部や遺構のみとなっている。  原城は1496年に有馬氏によって日野江城の支城として築かれた。後に有馬氏が日向国延岡城に転封となると1616年に松倉重政が日野江城に入城する。松倉氏は不便な日野江城を放棄し島原城を築

巡礼だろうか

 数年前から縁のある土地「外海(そとめ)」。以前は西彼杵郡外海町といったが、2005年に長崎市に編入されて町名としては残っていない。この外海地区の中の神浦(こうのうら)の山の中に「次兵衛岩」と呼ばれる洞窟がある。伝説の神父 トマス金鍔次兵衛が隠れたと言われている。  1602年頃に大村に生まれた次兵衛、のちに殉教したと伝わる両親は敬虔な信者であったらしい。6歳で有馬のセミナリオに入学した次兵衛は優秀で、神学生となり司祭を志す。しかしキリシタン禁教時代であり徳川家康による慶長