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最近いろいろ停滞気味で、noteの記事も進まない。そんな日々を過ごしているうちに、興味をもったことにも集中できないまま霧のようにうすれて散ってしまう。そういうのってなんだかよくない気がする。今日は、先日の七木地蔵のつづきというか、そのまわりのことをもう少し整理して書いてみたい。 * 久留米と弁財天信仰 先日の七木地蔵詣りのときに、しっかりと見ていなかったけれど、境内には弁財天も祀られていて、これはおそらく昭和49(1974)年の移転のときに七木地蔵の足元から発掘され
佐賀県三養基郡みやき町に千栗八幡宮というお社がある。たまに、そばを通ることがあって、気になっていたのだけど、先日機会をえて立ち寄った。 地図の示す駐車場にむかって車で上っていくと、混雑というか賑やかな気配がして、これは、とおもう。境内では高校生らしき吹奏楽部(?)が秋の(といっても真夏のように暑かった)神社に似つかわしくない音楽を披露している。 よりによって、と、なんともいい表せない心もちで、Kさんとお詣りをする。マツケンサンバを背中にうけとめつつ神社をあとにした。
最近、ちょっとした必要から京都・八坂神社の祭礼、祇園祭まわりのことを調べていた。祭りというものを好まないために、祇園祭は神輿の祭りだけれども山鉾が人気とかそういうことも知らなかった。祇園祭・山鉾といってうかんだのは、MASTER KEATON「祈りのタペストリー(10巻のCHAPTER7)」に祇園祭が取り上げられていたのと、妹尾河童さんのエッセイで見た彼による緻密なイラストだった(長刀鉾を描いておられた)。 京都・八坂神社における祇園祭のもととなっているのは、御霊信仰と
まいとし夏至が過ぎると、あたまの片隅に(もうじき夏越の大祓だな)という思いがわく。意識しているような、していないような、そんな感じですね。 ことしも何度か浮かんだけれど、神社には行かなかったです。そして、梅雨の蒸し暑さに脳みそも蒸されて、日々が過ぎていった。 * いくつか前の記事に載せたトリコロール・ブリッジの写真の日、周辺の神社を訪ねたら、境内にはまだ茅の輪が設置されたままだった。これは、くぐらねばなるまい。とおもって、Kさんといっしょに(おしつけて)茅の輪くぐ
数日前にちょっとだけ外海地区を訪問した。いつもお世話になっているTKサンにお付き合いいただいて、枯松神社と子捨川・仏崎を見に行った。 枯松神社というのは、外海の黒崎地区にある場所で、神社というけれど社格は持たない。かくれキリシタンの史跡の一つで、訪問ははじめてではない。 わりとどうでもいいことかもしれないけれど、枯松神社参詣のために車を停めるこの場所は、外海総合公園という公共の場である。車から降りて枯松にむかおうとしたところで、TKサンが、ここは県内で(たぶんそうい
半月ほどまえに訪ねた場所のことを書いていなかった。この日はある用事のため、ある人(あかえさんとする)に付いてきてもらってそれを済ませたあと、時間が空いていた。 あかえさんは車の運転をしないし、ひとり住まいで、なにか買いものの用でもあれば行きますよ、などと言いながらぶらぶら車を走らせていた。時刻は午後15時を過ぎたところで、晴れた日だった。 行く先をおもいつかなければ、どこかでだらだらとお茶するのでもいいか、などと考えていたら、あかえさんが善長谷教会の名を出した。以前か
長崎甚左衛門の墓が時津町にある、そんな話題がKさんから出て、当地に行ったのはひと月前のことだった。写真を数枚撮っていたし、もとの領地である春徳寺にも足を運んだのに、記事にするのにずいぶん時間がかかった。 * 長崎甚左衛門純景はポルトガルとの貿易のために長崎の港を開いた人物であり、その領地に日本初となる教会を建てる許可を与えるなど、なかなか目立った行動をしているにもかかわらず、一般的にはあまり知られていないようなところがある。 墓所のある時津町では看板が立てられてもい
いつか、とおもいつつずっと訪れることのなかった場所に、先日案内してもらって行ってきました。しょっちゅう行っている、外海の教会のすぐそばにあるんですけどね。 * パリ外国宣教会のド・ロ神父は1868年に来日し、長崎・大浦や横浜で印刷などの事業と司牧を兼務した。 ところで、あらゆる媒体でド・ロ神父と呼ばれ、すっかりなじみとなっているこのフランス人司祭の名前はMarc Marie de ROTZで、マルク=マリー・ドゥ・ロッツと発音する。deはフランス革命以前に貴族だった
今日12月8日は、日本軍による真珠湾攻撃(ハワイ時間12月7日)がおこなわれた日ですね。 記念的に、最近知ったことなどを書いてみたいとおもいます。 戸田帯刀神父射殺事件 必要があって、横浜周辺とキリスト教(カトリック)のあれやこれを調べていたところ、戸田帯刀神父の事件にあたった。 戸田神父は、1898年3月23日、山梨県に生まれ、1923年11月にローマのウルバノ大学へ留学、1927年12月17日に司祭に叙階された人物である。 札幌使徒座代理の職にあった194
台風が過ぎたあとで、いつかみたいにミルクティーのじゃない、今日の海はところてん色をしていた。 * このところ必要な文章いくつか書いて、それの英訳のため下準備的な作業をやっている、そのことを何度かここにも書いているけれど、相変わらずそういう作業が続いている。 今日は、その作業から少し離れて(プロジェクトとしてはひと括りではあるんだけれど)別の調べもの、書きものを進めた。 手元にある書籍などといった資料の他に、国立国会図書館のデジタルアーカイブを利用しながら、きょうの
前回の記事で外海のことをちょこっと書いたんだけど、昨日からは平戸の資料をあれこれ探して読んでいるところ。 それぞれの地域に共通する信仰形態に「かくれキリシタン」がある。 共通するとはいっても、成り立ちに違いがあって、それゆえ中身もけっこう違うものになっている。 私はどちらにも詳しくはないのだけれど、とくに平戸方面のかくれのことはよく知ろうとしてこなかった。 平戸島の北西部と、平戸島の北西にある生月島のエリアのこととなると、意識がなんとなく拒否をするし、そのあたり
ちょっとした報告用の資料をつくるのに手をかしてほしい、というので外海地区を訪問してきた。今日はたいへんな晴天だった。 提出用として(スマートフォンで)ささっと写真を撮って聞きとりをしたあと、少しだけ自分用にも写真を撮ってきた。 ちょっと前に、明治にこのあたりでいろいろな活動をした、パリ外国宣教会のド・ロ神父の手がけた建築物のことをちょっと書いた。何度も訪ねている場所だけれど、今日はまた知らずにいたその特徴のいくつかを見つけて、気もちが少しおどった。 このところ、あ
大浦天主堂の境内には、天主堂の他に旧羅典神学校と旧長崎大司教館という建物がある。そこらへんの資料を読んでいると、いろんな文献に実にいろんなことが書いてあって退屈しない。と言ってもそれらが全部信頼できるソースからのものとは限らないが。 このふたつの建物の設計者はド・ロ神父で(旧大司教館の方は鉄川與助との共同設計)、ド・ロ神父といえば外海地区にも教会堂などを建てたことで知られている。 ド・ロ神父の設計物とおもってあらためて眺めてみると、どれも実にしっかりと、実直につくられ
この間の記事の、続きを書いていきます。 資料は『南島原市世界遺産地域調査報告書:日本キリシタン墓碑総覧-企画 南島原市教育委員会/編集 大石一久-』という、大型の総覧を用いて参考にさせてもらっています。 * ・宮の本キリシタン墓碑群(南島原市布津町) ここもその場所を見つけられず、畑に立ちマップの指す方向を空しく眺めて終った。資料には「宮の本キリシタン墓碑群」とあるが、南島原市の指定文化財一覧を見るとどうやら「布津町キリシタン墓碑群」のことだと思われる。ここには共同