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「神は乗り越えられない試練を与えない」なんて嘘だと思っていた

こんにちは、ぴぴです。
昨日はクリスマスでしたね!
以前の勤務校の同僚から2通のクリスマスカードが届き、「さすがミッションスクール!」と感激しました。

今の生活には満足しているけれど、前職の同僚と会ったり、LINEや手紙で連絡をもらったりすると、どうしても里心がついてしまいます。

特に昨日はクリスマスだったので、「またカトリック校で働きたいわ~」と思いながら、近隣の私学を検索していました。

私自身は洗礼も受けていなければさして信仰心があるわけでもないのですが、宗教の教えという一本筋の通ったビジョンのある学校には魅力を感じます。

神様やミッション、聖書について考えていたら、8年前に聖書の一節について考察したのを思い出しました。

前の学校では週に一度礼拝があり、だいたい校長先生がお話をするのですが、たまに順番がまわってきて、生徒の前で話をする機会があるのです。

そこで今日は、自分に順番がまわってきたときに話した内容を加筆修正して公開します。


悩み多き中学時代

あまり思い出したくはないのですが、一言で言うと、悩み多き中学時代でした。

外見の悩み

家庭科の授業で、年齢別の平均身長が書いた表を見て、「なんで私は大きくならないんだろう」と思って授業中にこっそり泣いたこともあった(身長145センチ)し、

当時の日記を読み返すと、
「私の見た目はこのクラスで下から3番目だ」
とかそういうことも考えていたようです。

下から3番目って、あとの二人は誰なんだろうという感じですが、「あの人よりはましだろう」と考えることで自分を保っていたのかなあと思います。

そういう、今となってはそんなことで悩んでいたんだなって笑い飛ばせるようなことが大半ですが、今でも「あのときは辛かったな」と思うこともあります。

人間関係のいざこざ

それは人間関係で若干トラブったということ。

中学入学後、小学校の頃一番仲の良かった友達と、その取り巻きの女の子たちに、手のひらを返したように意地悪をされるようになりました。

幸い彼女たちとはクラスが違ったので、教室の中では穏やかに過ごせましたが、廊下を歩くと通りすがりに「キモい」とか「ウザい」とか「死ねよ」とか言われたり、

お手洗いで一緒になるとクスクス笑われたり、嫌な感じの咳払いをされたり、髪型を変えると呼び出されて、真似をするなと言われたり、

すごく大きいことではないし、誰でも多かれ少なかれ経験することかもしれないし、毎日嫌がらせをされるわけでもなかったけれど、私にとっては結構しんどかったです。

学校に向かいながら青い空を眺めて、「あと3年かあ」ってぼんやりと考えることもよくありました。

ただでさえ小さいのにもっと小さくなって廊下を歩いたり、違う学年のトイレを使ったり、とにかくびくびくしながら生活していました。

嘘だと思っていた聖書の一節

あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。

コリントの信徒への手紙 一 10章13節

この箇所は結構有名で、聖書の文脈から離れて励ましの言葉として使われているのをよく目にします。

(この箇所の文脈では、「試練」は信仰から離れたり、信仰心が揺らいだりするような困難、を意味するようです。)

これはよく母がかけてくれる言葉で、私が悩みを相談すると決まって、「神様は乗り越えられない試練は与えないからね」と言ってくれるのですが、

その言葉にすんなり納得できることは少なくて、だいたい「なんて無責任な。乗り越えられそうにないから悩んでいるのに。」と思ってしまいます。

そこで、この箇所について考えてみることにしました。

「試練」を辞書で引いてみた

何とか納得できる解釈を考えてみようと思って、「試練」という言葉を辞書で引いてみました。

一つめの辞書「心の強さや実力の程度が厳しく試されるような苦しみ」

二つめの辞書「信仰、決心、実力の程度を試すこと。また、そのための苦難」

試されていると思えてはじめて「試練」になる

そこであることに気がつきました。

「試練」というのは、困難や苦しみの一種ではあるけれど、
ただ苦しいとか悩ましいと感じているだけではそれはまだ「試練」とは言えなくて、

「このことによって私は試されているのだ」、「私自身が問われているのだ」と感じたときに、それが「試練」になるんだな、ということです。

「これは試練なんだ」、「私は試されているのだ」って思えたら、「じゃあ頑張って耐えてやろう、乗り越えてやろう」という力がわいてきて、自分の行動や意識を改める一歩を踏み出せるはずです。

実際には一歩踏み出してから乗り越えるまでにまだ道のりは続くけれど、一歩踏み出すということがとても重要なことであると考えると、「乗り越えられない試練はない」という表現にも納得がいきます。

要は発想の転換
「ただただ苦しい」から、「これは試練だ」に発展させること。

あとからでも「試練」と思えたらいい

さて、中学時代の苦しみを私がどう乗り越えたかというと、その時にリアルタイムで乗り越えることはできませんでした。

そもそも当時は「これは試練だ」なんて思えなかったし、成人式のときの中学の同窓会にも、当日の朝になって足がすくんで行くことができませんでした。(ドタキャンして幹事の人に迷惑をかけてしまいました。)

でも気付いたことはあって、自分がどうあろうと自分のことを嫌う人はいて、それはどうしようもないんだ、と思うようになりました。

なんだかすごく後ろ向きな感じもするけど、その人のことを気にするより、自分を好いてくれる人や、自分が好きだと思える人と誠実に向き合っていく方が大切だな、と今は思っています。

そういうふうに思うきっかけにすることができたので、すごく時間はかかったけど、今の私の中では、当時の苦しみは「試練」になっています。

(生徒の前で話したのはここまで。)

26才の私の言葉に、34才の今救われる

8年ぶりに読み返してみて、「26才の私、結構ちゃんと物を考えてるじゃん」と思いました。自画自賛。笑

そして、「あ、今も試練なんだな」と感じました。

「キャリア」や「自己実現」、「幸せ」について考えることが多い日々。
自分でレールを創るって大変です。

でも、頑張って一歩踏み出してみようと思えました。この局面を乗り越えて、自分で自分を幸せにすることができるように。

今日も読んでくださりありがとうございました。



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