産後ケアホテルも無痛分娩も、今日の私は選ばない。 | 出産エントリ
6月25日午前3時。
朝に始まり20時間ほど続いた陣痛のピークを迎えていた。
昨夜から、陣痛の予行練習と言われる前駆陣痛(妊娠するまで知らなかった)が始まり、「いよいよ来るのか」と緊張してなかなか眠れなかったのもあり、寄せては返す波のような痛みが引くたび、どっとした眠気に襲われた。
陣痛とは、通常閉じている子宮の出口「子宮口」を赤ちゃんの頭が通る10センチまで広げるときに伴う痛みで、5分間起きくらいに2~3分の痛みが下腹部や恥骨あたりに押し寄せる。
2時間おきくらいに、助産師さんが指を入れて子宮口の開き具合を確認してくださるのだが、朝は1センチしか開いていなかったのが、夕方には2センチ、21時ごろに4センチ、そして午前3時には7センチほどまで開いていた。
子宮口が広がれば広がるほど、痛みと痛みの感覚が狭まり、強くなる。
ちょうど、夏至をすぎたばかりの日だった。
早くも朝焼けがカーテン越しに部屋を照らす頃、ふいに寝てしまう瞬間があった。
1時間ほど寝たかと願うように時計を見上げると、たった5分しか経っていない。
3時から分娩台に登るまでの5時までの2時間は、人生で最も長い2時間だった。
「今から無痛分娩に変えることはできませんか…」
初めての出産をする妊婦を「初産婦」、2度目以降を「経産婦」というが、私は初めてなので「初産婦」。
初産婦は、経産婦に比べて、出産に時間がかかると言われていて、私も朝の内診で、「あと3日は生まれなさそう」と長期戦を宣告されていた。
分娩台にのぼってからは、赤ちゃんを押し出すように力を入れる「いきむ」をしてよかったので、痛みを打ち返すように力を込めることができて、そこまで痛みは感じず、最も痛かったのは午前3~5時の2時間だった。
ただ、そうは言っても、意外と乗り越えられない痛みではなかった。トラックに轢かれるような痛み、スイカを鼻から出すような痛みなど、いろいろな喩えを聞いて怯えていたが、確かに今まで感じたなかで最も痛いと感じたが、人生の範疇をはみ出すほどの痛みではなかった。
「今からでも無痛分娩にできませんか…」と無理なお願いを助産師さんにしてしまったのは、つどつどの痛みに耐えきれなかったというより、長期戦になった場合に、やりきる自信がなかったからだ。
「今からは、できません。」ときっぱりと言われ、何も悪くない助産師を恨みながら、せめてもの自分への救いとして、次は絶対無痛分娩を選ぶと誓った。(出産を終えてから、助産師さんには感謝しかないです…。)
痛みは、ギアを上げるように段階を踏んで強くなっていく。例えば5段階のギアだとしたときの2段くらいのときに、私はもう限界だと思って、弱音を吐いていた。
不安と自信を繰り返した22時間
陣痛が来るたびに、「もう無理だ」「私にはできない」と不安になった。
ただ、段々と無理だと思いながら対面していた現実が、過去になっていく。それは同時に、着実に自信を積み重ねる作業になっていた。
そして、子宮口が10センチ、つまり、完全に開き、分娩室でいきむ頃には、私は自信に満ち溢れていた。
猛暑日と言われる暑い日の朝、夏の始まりの喜びを教えてくれるように、元気な女の子が産まれた。
娘と越えるはじめての夜
分娩後は、予定通り5日間産院に入院をした。
私が選んだ産院は、母子同室といって、赤ちゃんとお母さんが同じ部屋で過ごすスタイルだった。
新生児は、ほとんどの時間寝ている。
母乳を出すためにも3時間起きに起こして、授乳をする。足りない分は、粉ミルクを作って補って、このタイミングでおむつ替えも行う。
ただ、それ以外のタイミングでも、気になることや困ったことがあれば、赤ちゃんは泣いて教えてくれる。その度に、おむつ替えをしたり、授乳をしたりして、それでも泣くときは、眠たいとか、暇だなぁとか、暑いなぁとか、理由を探ってあげる。
初日の夜は、そのリズムがとにかく合わずに一睡もできずに朝を迎えた。助産師さんが5時頃に、声をかけてくださり、赤ちゃんを一時預ってくれて朝ごはんまでのあいだ一眠りさせてくれたが、家に帰ればそうはいかない。
1日も休めない、1日も諦められない。
そんな大きすぎる責任を抱いていることを思い知った。
退院後、子育ての主語を増やしていく日々
無事、退院の日を迎え、夫が迎えに来てくれた。
赤ちゃんとともに出産と5日の子育てを越えた誇らしさと、これを楽しく続けられるのかという不安を抱きかかえて産院の門を出た。
まだ、猛暑日は続いていた。
帰ってからは、夫は1週間の育休を取得し、家が近い母も週に2~3回会いに来てくれた。
友だちに勧められて公開したAmazonのウィッシュリストからは、毎日山積みのプレゼントが届き、サポートしてくれる人が数え切れないほどいることに気がついた。
病室とは違って、赤ちゃんの物語に私以外の登場人物が次々と現れた。
1日も休めない、1日も諦められない。
そんな思い込みからも解放されていった。
ただそれでも、マタニティブルーズは、例に漏れず、私にも訪れた。いつになく擦り減った体で、いつになく大切に思える子に対峙すると、その緊張感や不安感に耐えられなくなるのは、そのとおりで。
加えて、家のエアコンが壊れたり、夜泣きのときにお隣さんから壁ドンをされたりすると、涙が止まらなくなった。
夫はそんなとき、私を寝かせて赤ちゃんを一晩見てくれるし、エアコンを変える日は母が迎えに来てくれて、赤ちゃんと実家に帰ることができた。
困難があるたびに、子育ての主語が「私」から「私たち」に変わっていった。
産後ケアホテルも無痛分娩も、今日の私は選ばない。
陣痛の助走では、無痛分娩にすればよかったと思った。
産後2日目には、産後ケアホテルを利用すればよかったと思った。
もともと、便利なものや新しいものには、興味があってお金を惜しまない性でもある。実際、無痛分娩も産後ケアホテルも利用するかぎりぎりまで迷っていて、利用しなかったのは、申し込むタイミングを逃したからに過ぎなかった。
それでも、産後ケアホテルも無痛分娩も、今日の私は選ばないだろう。
不安を越えるたびに得た自信の先に、今日子育てを楽しむ私がいて、困難を越えるたびにこの子を愛し育てる人が、一人、一人と増えていった。
与えられたのか、巡り合わせか、できごと一つひとつで確実に紡がれていった、この子が幸せに生きるための世界が、私の今日までの判断にはなまるをつけてくれたのだった。
ただ、実際は、産後ケアホテルや無痛分娩を選んだとしても、どこかのタイミングやそれぞれのペースで、親は自信を培い、子はたくさんの人に紡がれていくものなのだとも思う。
まるで夏が転がり落ちてきたかのように、産まれたこの子を一人で愛さなきゃなんておこがましかったのかもしれない。
これからも助けてくれる人、愛してくれる人にたくさん出会って行こう。そのための困難なら、正面から越えていくことも厭わない。