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【雑記】つかうの最近は

ご無沙汰をしております。最近のことをいろいろ書きました。
長すぎ(8,245文字)なので読みたい部分だけ読んでちょうだいよ!




【必読】いい本あるよ


鬼谷さんの日記まとめエッセイ本『秋茄子は道に落とすな』の装画・装丁を担当させていただきました。

この間現物を手にして、ちよ〜〜〜感動した。まずマットな質感が表紙のイメージにぴったりで、ずっと触っていたくなる本に仕上がっている。B6のサイズ感もかわいらしくて完璧。愛着が湧きすぎて、常に視界に入る位置に置いてある。

そして内容。鬼谷さんのことが好きな方ならもれなく満足できる。日記はもちろん書き下ろしのエッセイも面白かった。上記のURLから購入できるので全員即時購入、願えるか。必ずな。

装丁としてはもう少し小口が広い方が読みやすかったかもしれないという反省があるが、概ね内容を邪魔しない出来になったと思う。同人誌というものに携わったことがなかったのでいい経験になったし、何より楽しかった!







2024年 はらつかうを唸らせたパン3選

パン屋さんのパンが大好きで、一年を通して常軌を逸した量のパンを食べる(公園で)私を唸らせたパンを3つご紹介。


①ベーカリーカフェクラウン「パンスイス」(東京都)

ローソンで発売されている「バター香るパンスイス チョコ&カスタード」がずーっと気になっていたはらつかう。クロワッサン生地にカスタードとチョコチップが挟まれているらしいという情報にも胸が躍るが、「スイスパン」ではなく「パンスイス」という独特な響きに興味を示さずにはいられなかった!

しかし、新たなパンとの邂逅をコンビニ商品で済ませてよいものかという疑問がよぎる。何度手に取り、何度棚に戻しただろうか。結局私とパンスイスは巡り合わぬまま、徐々にその関心も薄れていくかに思われた。が、ある日たまたま大学の教授に勧められて立ち寄ったベーカリーカフェクラウンに、パンスイスの姿があるではないか!

パンスイスの横に用意された、ピザを窯に出し入れする際に使用するやつ的な道具。「お手持ちのトングではたちまち崩壊してしまうほどサクサクな生地ですからね〜」と言わんばかりの出立ちに期待が膨らむ。

いーーーぎなり美味しかった。2日東京に滞在した間、3個食べた。クロワッサン生地はサクサクを通り越してバリバリ。鋭い。中のカスタードは程よい甘さで飽きがこない。飽きがこないパンというのは、森羅万象のどれよりも危険だ。理由は、食べ続けちゃうから。


②菓房ポミエ「キューブパン」(宮城県)

榴岡駅からほど近い場所に店を構える菓房ポミエ。かわいいのは店名だけではない。

見ろ。キューブ状でふかふかのパンが、手のひらに収まる愛おしさを。画像のパンは確かチーズパンだったかな。他にもさつまいも味などのスイーツ系や、ウインナーがたっぷり入っている惣菜パンなど一通り食べたがどれも美味しかった。

特筆すべきなのはアップルパイだ。自家製らしいりんごジャムは甘すぎず安心する味で、全体的に余計なことを一切していない美味しさ。おそらくシナモン不使用で、みんな好きな味だと思う。はらつかうはあんまりアップルパイ好きじゃないんだけど、菓房ポミエのアップルパイは時期・体調を問わず食べたい。

何より近くに榴岡公園があるのがいいんだから。駅側のベンチに軽く腰掛けて食べてもいいし、元気があれば芝生広場の方まで登って食べてもいい。パンと相性がいいのはチーズやチョコレートではない、青空だぞ、と。


③かま栄「パンロール」(北海道)

北海道旅行中に出会った、かまぼこをパンで包んで揚げた食べ物。果たしてパンかどうかは議論の余地があるが、パン好きとしては食べておかなければないと本能で思った。

初めは「はい?」という感想だった。味、食感の何もかもが初めてでただ困惑するばかり。あと重量が凄まじい。体感、辞書くらいあった。食べ進めるうちに、不思議と「これを食べて育った気がする」という気持ちになってくる。すり身の優しい味わいは、どこか、あの日の名も思い出せない給食を彷彿とさせる。一口食べるごとに、食べ終わるのが嫌になる。恐ろしいまでの中毒性。私の未来に、突如「どうしてもロールパンが食べたい」という日が訪れることが確定した。言わないでね、出会ったのが間違いだったなんて。

帰りにまた食べようと思っていたがバタバタして食べられなかった。また近いうちに北海道に行きたい。消費期限が短いから地方発送していないらしい……。







大人だけど合唱してきた


思っていた。ずっと。

言えなかった。13歳の頃から。

合唱コンクールには多感な時期が付き物だ。あの頃の私も合唱が好きだった。でも言えなかったんだ。本当は合唱コンクールが大好きで、ちゃんとやりたかったのに「ま、別に」という顔をしてしまった。
そんなことも、今となっては責めるべきことではない。




だって、できちゃったんだもーん



私が「合唱したいンゴねぇ」とツイートした同日、ナラハシさんも合唱の話をしていたので思わずリプライを送った。
この心強さ。「やりたいね」「やりたいよねっ」みたいな会話になるかと思っていたので「企画します!!」の一文に心底驚いた。

そこからあれよあれよという間に「合唱」の輪郭が見えてきた。会場の確保、スケジュール調整、参加者の募集、パート分けや当日のプログラム……諸問題を大人達がサクサクと解決していく。演者達もまたその大人達なのだ。その奇妙さに痺れる。(私も実行委員会の一員として参加させていただいていたが、遠方のためほとんど協力することができなかった。Discordに動きがあるたび申し訳ない気持ちになり、少しでもこの会を良いものにしようと美しい高音を発声できる喉づくりに尽力することにした)


前日、夜行バスで6.5時間かけて東京に到着。

『繋いだ手と手』という、手を繋いだ状態で漫才をするライブ(配信では、繋いだ手と手のみを映す)を観て心を落ち着かせる。

もうこの日は終日ソワソワしていた。
豊島区立中央図書館に入って、読んだことある本を読んだ。宮城のアンテナショップに入って、「千日餅、あるね」とだけ思って出た。蒙古タンメン中本を5分くらいで食べた。逸る気持ちを抑えながらカラオケに入り、今回の課題曲である『COSMOS』をすごく、すごく(すごく)練習した。aikoとかも歌いました。


当日。この明るさの写真を持っている参加者はいないはずだ。

集合時間は18時頃だったにも関わらず、13時には会場に着いていた。会場の裏にある公園で、紀伊國屋ベーカリーで買った美味しいパンを食べた。

この時マルサンアイの「ひとつ上の豆乳」を初めて飲んでいたんですけど(だって美味しいパンを食べていたからね)豆乳好きであればあるほど、この豆乳を美味しいと思えないんじゃないだろうか。全然臭くなくて飲みやすすぎる。

会場周辺を数時間ウロチョロし、時が満ちるのを待った。同じく実行委員のたばねさんが100均に寄ってから会場に向かうとのことだったので、合流してまた会場に向かった。とてつもない移動量だったと思う。


18時。やっと会場に入れた!

「すげえーっ!モニターあんじゃん!」「250人も入れんの!?やべえーっ!」とかを全部やったあと、自分だけカジュアルな格好をしていることに気付く。一応黒っぽい服装で、というドレスコードがあったので、何年も前に古着屋で買った黒いスウェットに、父から譲り受けた黒いパンツを履いて行った。周りを見回すとみんな綺麗なドレスやスーツを着ている。超帰りたくなった。いやな夢みたいでさ。



我が中学校には「自由曲で『COSMOS』を歌ったクラスが優勝する」というジンクスがあった。結果、『COSMOS』を歌う権利を勝ち取った5組が圧勝。負け戦だと諦めながら『unlimited』を歌う私たちの瞳に、光は宿っていただろうか。

ずっと心残りだったのだ。大袈裟でなく、何をしていても私の人生は「『COSMOS』を歌えなかった人生」だった。


時の流れに 生まれたものなら
ひとり残らず 幸せになれるはず

ミマス(1999年)『COSMOS』より引用

練習をしていて驚いた。こんな歌詞だったなんて知らなかった。これほど『COSMOS』に執着していたのに、こんな素敵な歌詞があることを私は知らなかったのだ。

私はあの頃、本当に『COSMOS』を好きだったのだろうか。歌いたかったのだろうか。優勝したかったのだろうか。ただ5組の人間が憎かっただけなのではないか。

ほとんど知らない人と、肩を並べて歌う『COSMOS』が、過去の私を抱きしめてくれた気がした。きっと歌うのはなんの曲でも良かったのだ。純粋に合唱をやりたいと願う大人たちが集まり自ら夢を叶える自由さがなんとも痛快で、中学生の頃から持ち越しつづけてきてしまった憎悪みたいなものがあっけなく消えていくのが分かった。あの頃の私は『COSMOS』を歌いたかったんじゃなくて、争いのない世界でみんなと合唱したかったんだろう。『COSMOS』を歌えない人生だったとしても、みんな、ひとり残らず幸せになれるはずなんだからな。


豪雪の影響で帰るのに15時間かかった。画像は支給されたカロリーメイト。合唱の思い出がなければ絶対に耐えられなかった。マジによ。











食生活(もりもり)


朝:無糖ヨーグルト りんご1/2 シリアル 豆乳

昼:茹でレタス キムチとささみの和え物 もずく納豆そば(or白米) わかめの味噌汁

間食:レーズンorプルーン(50gくらい)

夜:蒸しさつまいも


約1,300kcal。この食事を2か月ぐらい続けている。同じ料理が何日続いても苦ではないので、献立を固定してみた。飯ジョブズとして名を馳せるのだ。

この食生活を始めてから、正直トイレの中がうんちの機関庫状態です。明らかに普通でない量に怖くなって「快便」でGoogle検索した。

便秘解消のためには、善玉菌(乳酸菌や納豆菌ど)そのものを摂取するのはもちろん、善玉菌のエサとなる食物繊維やオリゴ糖を併せて摂取することが重要らしい。ちなみに善玉菌を“プロバイオティクス”、善玉菌の栄養分を“プレバイオティクス”と呼び、その組み合わせを“シンバイオティクス”という。(かっこよくね?)

私の食生活は期せずしてシンバイオティクスまみれだった。ヨーグルト+りんご、納豆+もずく、味噌+わかめなど。0からこれに辿り着けたのすごいでしょ。うんちに導かれている。うんち界の神童だよ、わたしゃ……。







最近見た映画とその感想


『縞模様のパジャマの少年』

あらすじ
少年ブルーノは軍人である父の都合で、突然見知らぬ土地へ引っ越すことになる。遊び相手もおらず退屈なある日、部屋の窓から遠くに農場があることを発見する。両親の目を盗んで冒険をするブルーノ。たどり着いた先には、縞模様のパジャマを着たシュムールという少年が1人で座っていた。

感想
最悪。具合悪い。ブルーノが最悪のひらめきしたところからもう観るのやめたかった。嫌の畳み掛けがすごい。無知の怖さ。無知ゆえに飛び込める世界もある。たとえそこが地獄でも。


『聖なる鹿殺し』

あらすじ
謎の少年マーティンを、やたらと気遣う心臓外科医のスティーブン。マーティンを家に招き入れ家族に紹介するも、その日を皮切りに奇妙なことが起こり始める。突然足が麻痺し、食事を取れなくなる子供たち。実はマーティンの父は、スティーブンの医療ミスにより死亡している。その報復として、「家族の中から1人殺せば、他全員の命は助かる」と語りだすマーティン。あまりに残酷な決断を迫られたスティーブンの行末は。

感想
もうそのまま気絶したかった。本当に最悪。マーティン役の目が気持ち悪い。どの感情とも形容できない目つき。ずっと静かに怒っているようなんだけど、復讐心に激ってる感じでもない。他人事みたいな話しぶり。携帯契約するときみたいなテンション。聞き逃しちゃうくらいどうでもよさそうに説明する。サバイバルナイフ渡して「サプライズが台無しだよ……」←怖い。親父の仇という情熱も感じられないし、動機が不明瞭だから気味が悪い。こういう奴に命狙われるの心地悪すぎる。主人公が学校に子供2人の授業態度を聞きに行ったシーン、ここ最近で一番ゾッとした。妻「選ぶなら子供だよね?私たちならまだ子供も望めるし」長女「プレイヤーちょうだい。あんたが死んだ後でいいから」。怖すぎる。地獄は続く。


『少林サッカー』

あらすじ
かつて“黄金の右脚”と呼ばれたサッカー選手のファンは、八百長試合に加担したことをきっかけにその選手生命を絶たれる。20年後、元チームメイト・ハンの下で雑用係をするファン。やるせない日々の中、街頭で少林拳の素晴らしさを説く男・シンに出会う。その類稀なる脚力に惚れ込んだファンは、シンをサッカーに誘い、彼の兄弟弟子を集めた少林チームで全国大会の優勝を目指す。

感想
同居人と。こんなに面白かったっけ? 「おい、何やってるんだ!」「サッカーだ!」←サッカーじゃなさすぎる! ハンの監督するチーム、「魔鬼隊(デビル)」て。2001年当時の人が考えた、ドーピング(紫色)と謎の水中トレーニング。シンがムイを認めていたのは、「好きだから」じゃなくて、揺るぎない太極拳の実力と美しさがあるから。一見切ないし、ムイにとっては失恋だったけど、愛って本当はそうかもしれないとも思った。好きだからかわいいって言うんじゃなくて、かわいいからかわいいって言う。感情は一瞬で変わってしまうものなんだから、絶対的に評価してほしいよな。ラストの畳み方が気持ちいい。







『winny』

あらすじ
ファイル共有ソフト「winny」の開発者・金子勇が、著作権違反幇助の疑いで逮捕された。不当逮捕から無罪を勝ち取るまでの7年間。実話ベース。

感想
「ナイフを作った人間を罪に問えるか」。マスコミも警察も一般人も、実のところwinny事件の何が問題か分かってないんだろうな。未知を嫌厭するというか、「よく分からないので開発者を罪に問いましょう」という姿勢を感じる。公園での子供の怪我が後を経たないからという理由で遊具を撤去していくような、そうじゃなさ。勾留所で金子がwinnyの脆弱性と改善のビジョンを語り出したときの、壇先生の笑み、グッときた……。「記者会見で領収書を書かせる、とか?知らんけど(笑)」→「それだ!」みたいな流れ、ベタだけど好き。「プログラミング以外の言語ではうまく話せないので」と言っていた金子に、裁判でプログラミングを実演させる展開が熱かった。秋田先生、かっこよかった。緊迫した状況でもユーモアを交えられる余裕さ。東出昌大の癖の演技がいい。やるせない。才のある人間が、(特に)そうでない人間に時間を奪われるというのは。


『ラヂオの時間』

あらすじ
主婦が大賞を獲った脚本が、深夜のラジオドラマとして生放送される。リハーサルは順調に進み、このまま平穏に放送を迎えるかに思われた。しかし、番組は様々な問題に衝突する。主演女優のわがまま、演者同士の軋轢、スポンサーからの重圧やSEの不足……。現場はパニックに陥り、ドラマはみるみるうちに原型を無くしていく。

感想
めちゃくちゃ楽しい映画だった。他人事だから。現場にいたら死人を出してしまうよ。よく、出なかったね。初めは工藤(唐沢寿明)ムカつく奴だな〜という印象だったけど、歯に衣着せぬ性格なだけで芯の通った男だった。最後はカッコよすぎてムカついた。これ演じるの気持ちよさそうすぎる! やりたい! どんだけクソな本でも、そこにいる誰もが「誰も聴いてない」と思ってても、誰かは必ず聴いている。トラックの運ちゃんのシーンがかなり効果的だと思う。大袈裟な演出にしろ、原作改変問題はこうやって起きるんだなと。だからと言って、「私の作品じゃない!クレジットから外して!」は通用しない世界。みんなどこか妥協しながら、いつか素晴らしい作品を作れると信じながら足掻いている。「水陸両用ってことにするのはどうでしょう。陸専用とは一言も言ってない。」最後のセリフとして完璧! 若唐沢かっっっっこい!!!!! ドキドキ!!! また観たいなぁ。


『あんのこと』

あらすじ
売春、母親からの暴力、低所得、薬物依存……うだつの上がらない毎日を送る主人公・杏。覚醒剤使用容疑で取り調べを受けたことをきっかけに、薬物更生支援グループの講師も務める警官・多々羅に出会う。多々羅の知り合いで記者の桐野の支援もあり、再就職を果たす杏。新しい環境、人との繋がりの中で少しずつ変わっていく。

感想
上映時間の半分以上泣いていた。硬い布を噛んでいたかった。苦しい。手帳を購入するシーン、「あんちゃん……🥲」「あんちゃん……あんちゃん……?😧」「あんちゃん……!😊」となった。社会的に不利な立場にいるとき、それを理由にあぐらをかいて、動かないことを正当化してしまいがち。少なくとも私は。どれだけ家庭環境が悪くても、漢字が書けなくても、あんちゃんは変わろうとすることをやめなかった。己の成長を楽しむ姿、パワーがすごかった。眩しすぎて目が焦げるかと思った。てかちょっと焦げた。本当はこういう経験を、思春期にやるべきなんですよ。お母さん。あんちゃんの母親があんちゃんを「ママ」って呼んでることに対して何の説明もなくてずっと怖かった。新しい就職先の介護士さんの「(リストカットを見て)切るなら足にしな」というセリフがすごい。なかなか言えないぜ。なんかまた中学校行きたいな。大勢で同じことを学んで同じ飯を食う経験をしたい。今ならやれる気がする。







カップル言語学概説


知人とその恋人のLINEでのやり取り、というものが好きで、いろんな人に見せてもらっている。そのたびに、「カップル間でのみ使われる独自の言葉」というものが、この世には割と当たり前に存在しているんだなぁと感じる。

中でも最も私の興味を引いたのは、小学生からの付き合いである友人が、彼氏とのやり取りで頻繁に使っていた「スピ」という単語である。

「スピする」は「寝る」という意味を持ち、概ね「そろそろおねむだからスピするね」といった文脈で使用される。「スピ」の語源を辿ると、お察しの通り、元は寝息のオノマトペである「スーピー」だということが分かった。

私はこの「スピ」が大層気に入り、その友人に会うたびにLINEを見せてもらい、「スピ」でトーク内検索していた。ちなみに100件を超えていたと記憶している。

前述の通り、「スピする」は「寝る」という意味を持つ。これは揺るぎない事実なのだ。しかし、ある夜の彼氏の発言では「そろそろスピだからおねむするね」という使われ方をしていたのだ。

心底、戦慄した。

えっ? 「スピ」だから「おねむ」? 「おねむ」だから「スピ」するのではなく?

「スピする」=「寝る」だったはずだ。この文脈だと「スピする」=「眠い」になってしまうではないか。そもそも語源が寝息の「スーピー」で、就寝後の様子を表現しているはずなんだから、「眠い」という意味では使えないだろうが。ふざけているのか?

たまたま「スピ」と「おねむ」の順番を間違えちゃっただけでしょ? という意見もあるだろうが、この日のやり取りから後は全て「そろそろスピだからおねむするね」が使われていた。このことに対して友人は何の違和感も持っていなかったようで、「そう言われてみれば、変かも〜」と言っていた。

恋人は友人や家族とは違い、多くの場合毎日(でなくとも頻繁に)連絡を取り合うものだから、やり取りに一定の形式が生まれ、その中でオリジナルの言葉ができていくのだろう。現に今まで見てきたカップル言語のほとんどは挨拶の類だった。

特に「スピ」は寝る前の最後の言葉として使われるから、おおよそ意識が朦朧としているのだろうと考察することもできる。しかし「スピ」が形式化して本来の意味が曖昧になっていく様子には何とも言えぬ怖さがあった。「寝る」が幾度とないやり取りの中で「スピする」に変化するのは、「ありがとうございます」が「あざっす」になるように自然なことだと理解できるのだが、意味まで失ってはいけないはずだ。

程なくして、友人はスピの彼と別れた。己で生み出した言葉に責任を持たない奴とは別れて正解である。今は高校を強制退学になったアル中と同棲しているらしい。あーあ。







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