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自分が認知する世界
存在しない左側
私は左耳が聞こえない。厳密に言うと0ではないが、いわゆる高度難聴で補聴器を使っても意味がないレベルなのだ。
だからといって困ることはない。当然努力をしているから。誰かと歩くとき、バスや電車に誰かと並んで歩くとき。自然と左側にポジションを意識することで、分からないようにしているのだ。
5年以上前に「半分、青い」という朝ドラが放送されていたが、その主演である永野芽衣は私と同じ難聴持ちのキャラクターで、雨が降る際、左側が聞こえないことに面白みを感じていたが、その感覚はなんとなく分かる。たまにYouTubeで難聴はどう聞こえるかの動画を見ることがあるが、あれは少なからず的を得ていると思う。ただそれと同時に、「普通」に聞こえる人にとっては、あんなにうるさい世界で生きていて大変だとさえも思う。
断念するしかなかったこと
私は幼少期からピアノを習っていた。毎週1回と、別にプロになりたいわけではないが、それなりに一生懸命やった習い事だっただろう。音楽は今でも好きで、正直吹奏楽をやってみたかった。ただ吹奏楽は周りの音と自分の音を合わせていくということが前提になる。これは無理だな、そう思った小学生時代、なんとも絶望でしかなかった。
周りに言うべきかどうか
難聴の方のブログやSNSを見ると、言うかどうか迷っている人の方が多い。私は大学でこの話をしたことはほとんどない。正直、自分の努力次第で自分が難聴であることが分かられないのであれば、無駄な配慮もされたくないので黙っている。別に隠しているわけではないが、わざわざ言いたいことでもない。もちろん聞かれたら答える。入学後、言わなくてもなんとかやっていけると考えていたが、健康診断でひっかかり周りにカミングアウト。まあ言えた分、気持ちは楽になった。
このノートを書こうと思ったのも、決して言いたくなったからではなく、この高校の友人は知っていながら、大学の友人はほとんど知らない今日の現状の面倒くささを自分で確認しておきたいからだ。
社会との向き合い方
社会において、特に私のような片側だけ聞こえない難聴の人は意識されにくい。統計的に考えたら、100~150人に1人くらい片耳難聴は存在しているはずだが、あまり同じ境遇の人は見られていない。片耳難聴は本人も気づきにくいという点もあるが、やはり言いにくいことなのだろう。私は自分が少しでも難聴であることを周りに発することで、少しでも言い出す勇気やきっかけになればいいと思う。言い出した先に、断念しなければならないこともあるかもしれないが、それは背が低いからバスケットボール選手になれなかったり、目が悪いからパイロットになれないくらいの価値観でしかない。
補聴器をつけてしまえば、なんか目立つ。差別意識とかではなく目立ってしまう。しかし、目が悪くてメガネをかけるのと何が違うのか。メガネはオシャレなアイテムという考え方もできるし、そうやって補聴器が当然、なんならオシャレに使われる世界が来るといい。そう信じたい。
自分が難聴であるからこそ
左耳が聞こえないことに対して配慮されたいとは思わない。もちろん気を遣ってくれるのは嬉しいが、気を遣わせているという申し訳なさが勝ってしまう。
最近思うのだが、大学に入ってからこのことを周りに言わなくなったのは気づかれないような方法(気づかれることを回避する術)を知ったからだ。だから自分でどうにかすればいい。社会を変えるより、自分が上手く立ち振る舞った方がよっぽど楽なのだ。これは難聴に限らず言えることだが、このことを実感させてもらった。