求めていたのは。
皆さんは、後悔や自己嫌悪で沈む時
「音楽」に縋(すが)りたくなることはありますか。
誰にも話せなくて、話したくなくて、落ち込んで、苦しくて、だけどひとりでは抱えきれなくて、そんな時
私は拠り所を探し、イヤホンで世界に蓋をします。
これ以上沈みたくない一心で無意識にエールや激励の込められた曲を流して必死に自分に「大丈夫だ」と言い聞かせる。
しかし音楽の力に頼る一方、心の片隅で「更に広がる自己嫌悪」と「真に救われることがないという虚無」を感じていました。
「大丈夫だよ」「貴方は美しい」「がんばれ」
このような言葉は全て"努力をして立派に生きてる人間"という前提のもとで届く言葉だと、私は薄々、そして常々、感じていました。
これらの言葉は紛れもなく激励で「励まされる」ことに変わりはありません。
しかしこの類の音楽に私が助けを求める時は「大丈夫にならない」「自分が醜い」「がんばれない」と思っている時で…
エールは頑張る人の背中を押すことはできても、心が地に落ちた人の視界を変えることはできない。
激励の歌では「0」になった自己肯定感を「1」にすることはできない。
これが20年と少し、私が生きてきた中で出た結論でした…
それでも尚、
音楽に縋ることを辞められない情けない私の前に現れたのが「油性ミステイク」でした。
この曲を聴いて、私は初めて私の心が欲していたものに気づきました。
私は、私に染み付いて消えることの無い過ちや後悔ごと、「私」だと認めて欲しかった。
悲しいことも、嫌な出来事も、起きたことは無きものにできないとわかっているからこそ、恥ずかしくて情けない自分も、そんな自分が行ってきたことも逸らさずに見つめた上で、逃げてはダメだとした上で、傍にいてくれる歌を求めていたのです。
そしてこの曲は "そんな" 曲でした。
後悔は消えない、無かったことにはできない
それでも時間は、少しだけそれを濁してくれる。そしてその時間を進める為には、立ち止まって目を閉じて逃げるのではなく、向き合って、今を見なければいけない。
心が沈んだ時、今の自分と向き合うことが、1番辛いと感じます。
私が音楽に縋るのも「逃避」なのだと思います。
今までは、逃げた先で「大丈夫大丈夫、頑張れ頑張れ」と無理やり腕を引かれている感覚でした。自分のことが嫌いな自分に対して「大丈夫だ」と言われたら「このままでいいわけが無いと思っている自分」を否定されているようで、苦しくなります。
でもこの曲は、逃げてきた先でうずくまって丸まった私を抱きしめて「辛いよな」「痛いよな」と言ってくれる。そして静かに方向を指し示して、自分の力と速度で進ませてくれる。そんな曲だと感じました。
「油性ミステイク」は私にとって、静かに私という存在を照らす月のような曲です。
この曲に出会えたことに、心から感謝しています。
おわりに
書けば書くほど、卑屈な自分が露呈してしまいました…お恥ずかしい限りです;;
今回は私の主観を軸につらつらとお話させていただきましたが、上手く言葉に出来ず…少しでも汲み取っていただけたらと思っております。
そして1つ、この世界の応援歌やエールソングを否定している訳では無いことお見知り置きいただければ幸いです。
今回も、最後までお読みいただきありがとうございました。
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