時間が癒せない痛み
時間が痛みを癒す。
それは正しいのだろう。
絶対に生涯に渡り癒える事がないと思った痛みがかつてあった。
人に傷つけられた時。
仕事が上手くいかなかった時。
そんな時にこの痛みは永遠に消えないのだ、と心から思っていた。
それでも今、それらの痛みは嘘のように消えている。
自分を苦しめる事象から離れると、精神的にもその事から離れる事になる。
運命と思うほどに愛し合っている恋人同士でも遠距離恋愛になると別れてしまう事がある。
物理的な距離が精神的な距離を作る、の良い例がこれだろう。
事象(人間の場合対象の方が相応しいだろうか)から距離が離れるとその事について考える機会が減る。
そこに時間が加わると痛みは中空に拡散して最後には消える。
傷痕は残るし、ふとした時に疼痛も起こるがかつての様な、身を切り裂く様な激痛に常時襲われる事はもうない。
だから時間が癒す、というより原因になった事象と無関係になり時間も経過すれば、傷は癒える、が正しいのだと思う。
痛みの理由になっている物事に包括されたまま時間だけが流れても痛みは消えないのだから。
しかし自分を苦しめる事象が、自分自身の中にあるならどうだ?
私を今まで苦しめてきたものは、全て自分から切り離す事が可能だったものだ。
だからそれを切り離して時間に身を委ねているうちに楽になる事が出来た。
しかし知的障害だけは自分から切り離せない。
自分の一部なのだから。
これを切り離すには障害もろとも心中するより他、方法がないだろう。
障害だけ都合よく切り離せたらそんなもの
を障害とは呼ばない。
知的障害がある限り、完全な心の安定は得られない。
常に明日さえあるか怪しいという恐怖に苛まれながら生きる羽目になる。
私の言う安定というのは経済的な安定だ。
私の仕事が着々とシステム化されてきている。
会社の屋台骨の我が部署には仕事が溢れかえっている。
しかし私に出来る仕事はない。
もしも恋人でも出来て精神的に支えが出来たとしても、仕事がなければ状況は好転しないだろう。
私が欲しいのは心の支えなどではなく、経済の支柱という現金なものだ。
しかしこの現金が欲しいという願望は、あながち現金とは言えないはずだ。
下らない言葉遊びみたいになっているが真剣な話をしているのだ。
金がなければ何も始まらないのだから。
だから絶対的な経済的安定を求めるが、知的障害がある限りそれは叶わない。
いつもの堂々巡り。
メビウスの輪。
こうしている間にも時計は回り続ける。
何も変えれないまま、変われないまま進む時間の先には何が待ち受けているのだろう。
今は進み続けるしかない。
何物にも解決出来ない痛みを抱えながらでも進むしかない。
歩みを止めれば痛みはなくなるだろう。
知的障害者として生きる事を受け入れたら、きっと痛みはなくなる。
でもまだそんな事はしたくない。
受け入れると言う名の諦めで痛みを癒したくないから、私は運命に必死で抗う。