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猿の惑星のラストシーンに想う。

久しぶりのポストです。先日、ふと思ったことがあ李、備忘録として掲題をテキスト化しておきます。

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「猿の惑星」という映画を未見の方にとってはネタバレになってしまうのですが、今回の内容に関して必要になってくる部分でもあるので、かいつまんで粗筋を書くと、”全く知らない土地にタイムスリップしたと思っていたら、実は自分がよく知っている土地だった”というストーリーです。(1968年公開のオリジナル版「猿の惑星」のことを指します)

で、何が今回の話とリンクするかというと、先日僕が久しぶりに訪れた都市で感じたことです。

ほぼ10年ぶりぐらいにその街に足を踏み入れたのですが、都市開発などが進み、駅前から何からもう雰囲気も何もかもが変わってしまっていて、かなりショックを受けました。十年一昔という言葉があるように、時代とともに景色が移り変わっていくのは当然なのですが。

街は生き物。

街は生き物。人の往来が街を作り、そして街の成長がそこに集まる人々を育てていきます。とはいえ、歴史の感じられない街には無機質さしか残らなくなってしまいます。

そんな空白の10年間に思いを馳せていたところ、ようやく見慣れたオブジェを見つけることが出来ました。この時、僕はものすごく安堵したのと同時に、軽い郷愁感を覚えました。10年前にそこにいた自分、10年経ってここにいる自分。まさにノスタルジーです。やはり、自分が知っているモノが残っているということは過去の自分に繋がる大切な標だと思います。

で。

冒頭に戻り、映画「猿の惑星」のラストシーン。公開当時から衝撃のラストとして語り継がれてきたシーンなのですが、主人公は自分が知っている景色を見知らぬ(はずの)土地で終に出会ってしまいます。およそ監督の演技方針としては、『ショックを受け、膝から崩れ落ちる』というト書きになっていて、チャールトン・ヘストンも正に真に迫る演技をみせています。

この「猿の惑星」以来、「A.I.」や「ブレードランナー2049」などのディストピア映画でも、同様の手法で時間経過の残酷さを表現しているものも見られますね。(もっとあるのだろうけど今のところ頭の引き出しから出てこなかった)


知らないはずの土地が、実は知っている場所だった

という事態に陥った時に、「安堵」と「絶望」、どちらが自分に訪れるのでしょうか?

「猿の惑星」の場合は規模や過程が過酷だからあまり参考にならないですね…。


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