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使い捨てカイロにおけるアイデンティティの崩壊
ずっと前から思っていて、ふとした時に思い出してしまうこと。
と言いながらも、文字に起こすには雑感すぎて、いつもそのまま放置してしまうぐらいの出来事は多々ある。(偶然知った)noteを始めて9ヶ月目となる今日、5つ目の投稿を試みたいと思っている。
使い捨てカイロと言えば。冬の時期、そして4月を過ぎる三寒四温のこの時期にでも必要となる場面の多いものである。
僕が小さかった頃など、使い捨てのカイロは携帯暖房器具としてある種のブームでもあり、ひいてはテレビコマーシャルを打つような商品でもあったように記憶している。今でこそ薬局やコンビニエンスストアなどでは定番商品として陳列されているが。
僕が気付いた数年前ぐらいから、そんなカイロ界隈では比較的ショッキングな事象が起きている。
”貼る”カイロの台頭
そう、察しの良い方はもうお分かりかもしれないが、カイロを衣服に貼ることができるタイプのカイロが開発されたのだ。開発と言っても、カイロの片面が軽粘着になっているというものだが。
ここまでは何の問題もない。衣服に貼れることで背中や腰回りなどを直接暖めることが出来るようになり、人類の体温は飛躍的に安定することとなった。感謝である。
ところが、ここからが問題である。
「貼る」カイロが後から出てきたおかげで、オリジナルであるはずのカイロの用途が定まらなくなってしまった。オリジナルのカイロは漢字で書くと懐炉。読んで字の如く、懐に入れる囲炉裏である。今思えばこの単語自体もお軽妙洒脱でセンスが良い。
懐に入れるはずのカイロが、貼れるようになったことにより懐炉ではなくなってしまう、
のではなく、ここで人類は大きな過ちを犯してしまう。
オリジナルの尊厳を蔑ろにする
「貼る」カイロが本来なら道を譲るべきであるにも関わらず、なんとオリジナルのカイロが「貼らない」カイロという呼称へと変更されてしまう。
なぜ、先達が「貼らない」と侮蔑されなければならないのだろうか?百歩譲って、「貼る」カイロは許せる。カイロという単語がありきで『わたしは貼るタイプのカイロです』という一歩引いた所作が見て取れる。言うに事欠いて、「貼らない」という冠を付けるとはどういった了見なのだろうか?
さらにひどい扱いまで
企業を責めるわけではないが、これに至っては「貼れない」と、何か欠陥商品であるかの如き謳い文句である。売る側の姿勢がこのようなネガティブな物言いで良いのだろうか、とも思う。
貼るカイロの利便性が優先され、世の中における認識の変化が、大元であるオリジナルのアイデンティティにまで影響を及ぼしてしまっているというのは、何か人間社会の言葉に表せない”畝り”のようなもの、そして冷酷さを感じざるを得ない。
1,151字の駄文にお付き合いいただきありがとうございました。