[映画鑑賞文]ひなぎく(1966) 戯れと政治

ひなぎく Sedmikrasky
監督:ヴェラ•ヒティロヴァ
制作国:チェコスロバキア
制作年:1966
(以上キネマ旬報WEBより引用)

この映画の現代的意義を云々する文章はあると思う。しかし、この映画の無秩序さ、自由さが好まれた時代はとうに過ぎ去ったのではないかと思われる。

この映画には女も男も出てくるが男女の恋愛を描いた映画ではない。この映画は非駆け引き的映画である。九鬼の言うようないきの構造的恋愛の駆け引きはこの映画には存在しない。それは恋愛という遊戯としてよりも、恋愛的な戯れが演じられるという戯れとして演じられる。
だから彼女たち(この映画の主人公であるマリエ1とマリエ2のこと。ただし自分の見落としでなければ作中でその名が明かされることはなかったように思う。だからこの名前はあくまで彼女たちを語るために仮に与えられた名前だと思える。)には少なくとも本心をめぐるゲームとしてあえて恋愛ごっこが戯れとして行われるのではなく、単に戯れとしての戯れである。
だからその戯れに付き合わされて怒ったり困惑したりした男たちが、最後にはどこか名残惜しそうに列車で去っていくのは、非駆け引きの愉しさを知ってしまったからである。そして彼らが帰っていくのは駆け引きの場なのだろう。

この映画において彼女たちが何を考えているのか、何を思っているのか、彼女たちが言ったり、そういうふうに動いてはみるものの、実のところ何を考えているのかはよくわからない。
だからこそ、観客もまた劇中の彼女たちのように鑑賞することで戯れることができる。
戯れそれ自体を目的として戯れるように、映画と戯れることができる。

しかし、この映画からはときどき政治的なメッセージが発せられる。
それも戯れとして解釈すべきだろうか。おそらくそうではない。むしろ戯れがもたらす無秩序は、一定の政治性や非政治的であることの反政治性を持ちうること、それを行使しうることを示しているのである。

だが、男性である自分の眼には無秩序が反政治的であるという考えはいささかナイーブに思われる。戯れによる祭りは政にならず祭りとして完結してしまうように思われるからだ。

しかし、今もなお多くの人々、特に女性をこの作品が惹きつけるのは、いまだに女性たちがこの映画に自由という夢をみる、それはつまりこの映画で去っていくような男たちが今だに女性たちをそうとは抑圧しているのかもしれない、からなのだろう。
と知ったようなクチで紋切り型の結論を書くのではなく、むしろビジュアル、オーディオ、振る舞いの支離滅裂さ、各々の要素がそれ自体を目的としながらもおおらかなまとまりを持ち、どこか過激で、でもお茶目だが、誰かにすり寄るでもない、自立的で自由な映画であることがこの映画の魅力なのだ。

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