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『芸術による芸術』         著者:9月のワンピース

芸術は一言では言い表せない。
芸術と聞くと、完璧で美しい姿を想像する。
しかし、人間のように不確実で脆く、どうしようもない存在こそ芸術と言える。少し触れるだけで崩れ落ちそうになる。人々が芸術に感動するのは、そういう人間の性に触れることができるからなのではないでしょうか。未完の美しさは、完成を想像する私たちの見えぬ場所に存在している。完成した作品は、物として確実に存在しているが故に、常にいつか消えてしまうのではないかという感傷的な想いを抱かせる。確かに芸術はここにあったという想いに馳せながら、そこにいる”何か”に人は魅了されているのかもしれない。芸術は音が無く、無風な場所に流れている。芸術は時間を感じぬ空間に存在しているようだ。それは、あらゆる概念から私たちを解放へと導いてくれる。概念を通して芸術を見ることができても、それらは決して虚像であることを語らぬ。概念というフィルターは必ずしも透明とは限らない。それは紅や新緑、漆黒など対象物によって柔軟に変化していく。芸術には境界線があるようでない。境界線はノイズだということを知っているから。芸術には境界線がないようである。境界線は芸術の一部だということを知っているから。人間が芸術だとすれば、私たちが芸術と呼んでいるものは芸術による芸術なのか、それとも芸術そのものなのか。それは芸術自身にしか分からない。自然を描く者にとって芸術とは自然であり、人間を描く者にとって芸術とは人間である。芸術は如何なるものにも干渉されない。それは時代の移り変わりや観測場所などあらゆる条件を含む。美しくも悲しくも芸術は途絶えることがなかった。芸術はどの時代にも依存することがないので、時代を捉えるためには芸術以外を用いると分かりやすい。もしも時代を超えて流れ自体を捉えたいなら、芸術を見るべきだ。芸術は静止しているようだけれども、絶えず流れている。芸術は物質であることを望まない時もある。破壊の中に残るものは、どこにも届くことのない悲しい嘆きのみ。確かに嘆いているけれど、誰も見つけてはくれない。芸術による芸術は今日も芸術だ。では、明日にはどうなっているのだろう。もしかしたら明日にはきっと消えてしまうかもしれない。そう思ってしまう私たちの心の中に芸術は眠っている。芸術の中の芸術と、芸術による芸術は似ているようで微妙に異なる。前者は変わることなく後者は変化していく。変化していくという事実は変わることがないため、どちらも芸術以外にはなれない。芸術は傲慢ではないため、それ以上の存在になろうとはしない。破壊衝動は破壊に繋がるが、時に美しさに化ける時がある。しかし、それは爆発しないことを前提とした時に限る。芸術は何故、芸術でいられるのか。芸術を語ることは芸術に値しないのか。芸術は今宵も芸術を創り出す。それが美しさを醸し出すのか、それとも悲劇を招くのか。芸術という名の人間の内部に、もしかしたら隠れているのかもしれない。


最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
美術館で絵を見ている時、

「作者は、何を描きたかったのか、どこから描こうという気持ちが湧いてくるのか。」

など、作品の背景を想像してみると、人間に行き着くのではないかという疑問が浮かんできます。人間自身が芸術であるならば、作品は人工物と言えるが、そのような捉え方は少し冷たい気もします。
何だかんだ言いつつ、結局は自身の価値観で芸術を語れば良いと思う今日この頃。


話はガラリと変わりますが、僕には夢があります。

本を出版すること

です。そのためにnoteをはじめ、Instagram、X、Tiktok等にも書いた本を載せているので、見やすい媒体で是非ご覧ください!
なかなか思うように文章が書けず、どうしようも無いと思うこともありますが、諦めません。
必ず本を出版します!

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