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『ぼくの部屋には時計がない。』 著者:9月のワンピース
ぼくの部屋には時計がない。いつからかなくなっていた。時計を設置していた跡だけが僕の部屋の真っ白な壁に小さな穴として住んでいる。それは、とても小さいようで大きい。それは、まるで宇宙の存在そのものを吸収するブラックホールのようだ。早く終わらないかなと何度も授業中に確認する時計。深夜に魘されてふと起きた時に見る時計。「今、何時?」と聞かれて見る時計。普段意識しないが日常のあらゆる場面において時計はしっかりと、そして確かにそこにある。時計は日常に溶け込んでいる、いや、溶け込みすぎているのだ。時計に限った話ではないが、世の中で一番怖いことは、日常のあらゆる場面で堂々としている存在である。それらは良く理解している。近くが一番見えないということを。そこで私は近づいてみた。すると次のような疑問が浮かんできた。よく考えてみれば、時計って何でしょう。こんな疑問だ。一般的に説明しようとするならば、時計とは時刻を示したり、時間をはかるための機械である。それは誰でも承知である。では、時間とは何だろう。時間とは、端的に言えば、ある時刻からある時刻までの間の長さのことを指すだろう。あれ、ある時刻とは一体いつのことだ。このような疑問が時計と同じように止まることなく刻一刻と私の脳に刻まれていく。時計、砂時計、ストップウォッチ。時間に関する製品はいくつか種類がある。それらは常に寸分の狂いもなく、あたかも自分が時間、自分が絶対的に正しいと言わんばかりに執拗に主張してくる。時間って何でしょう。時間が分からないと生きていけない社会において、一秒とはどのくらいの長さか正確に説明できる人は果たしてどのくらいいるでしょう。一秒の定義はあるみたいですが、実際に理解ができるかと聞かれても首を縦には振れません。時間を数える時、「イチ、ニ、サン、ヨン」などと数えますが、そんな時に「あれ、イチって何だろう?」と思うのです。そうなれば、時間に限らず目の前のこと全てに関して疑問を持つのではないかという疑問が生じると思います。仮にそのような疑問を投げかけられれば、「そうです」。と答えるでしょう。全てに対して疑問を持ち、疑い続けたまま人生を終えることはありませんが、何も知らないならば全てに対して疑問を持つところから進んでいくということは一つの歩く道ではないでしょうか。自分の道を進んでいくと、未知に遭遇します。今回がたまたまその未知(道)が時間といっただけのことです。時間には、私たちが普段意識していないだけで、とある真理が隠れているのではないかと思います。例えば、「時間を守る」ということで考えましょう。日本では、日常生活の中で時間を守ることが美徳とされているらしい。確かに、それは人と関わり合いながら生活しているこの世界にとってとても大事なことでしょう。時間を守るから電車は時刻表通りにやって来る。時間を守るから相手から信頼される。もしも遅刻を繰り返すと、その人は時間を守らないというレッテルを一生貼られて生きていかなければならない。遅刻は良くないという概念がある以上、これは変わることがない。時間を守るとは、遅刻をするとは一体何なのか。それは、他人による認識に依存しており、実際には遅刻した本人は真に自分の時間で生きているだけなのだ。自分の時間とは、自分の時間でもあり、全体の中の一つの時間でもある。自分の時間の中に全体の時間があり、全体の時間の中に自分の時間がある。時間は永遠でもあり、瞬間でもある。時間は無時間として確かにここにある。自分の時間と他人の時間の違いとは、そして時間を共有するということは一体どういうことなのか。考えれば考えるほど時間の渦に巻き込まれていく。時間について考えいる間にも時間は止まることなく経過している。とても皮肉なことだろう。
ここで、ある2人の少年の物語を紹介しよう。
登場人物①
時風。生まれた時から好奇心旺盛で、思ったことはすぐにやらないと気が済まない性格。セミの鳴き声が聞こえるとすぐに森の中へ行き、太陽が昇ってくるのを見ると、近くで見てみたいと言って東へ駆け出す。
登場人物②
間地。生来、生真面目で約束事をきっちり守り、やりたいことよりやるべきことを優先して行動するような性格。それだけではなく、明晰な頭脳と全てを受け入れる広くて優しい感受性を持つ。
2人は生まれた時から一緒で、唯一の友だった。2人が住んでいるのは、その地方では珍しく自然に囲まれた場所で、まるでそこだけが別世界のようなゆったりとした時間の流れで満たされているような不思議な雰囲気を持っている。時風はいつも森の中で遊んでいる。それを見て間地は時風のもとへ行き、2人で森の中を駆けるという日々を過ごしている。そのため、二人は集合時間を決めることなく、毎回自然と集まって遊んでいる。その日も二人はいつものように森で遊んでいた。その森は、目視で五十メートルを優に超えるほど巨大な木々に囲まれており、その森の端を誰も見たことがなかった。その森はとても荘厳としており大きすぎるため、間地にとっては凄さより若干の不安を駆り立てるような存在であった。同時に、その森はとても美しく大きすぎるため、時風にとってはそれが何か明確に分かるけどまだ見えないといったような高揚感を搔き立てる存在であった。
「もう暗くなったし、ご飯の時間だから帰ろう」。
間地くんが曇天とした空を見上げ、時風くんに言った。
「まだ奥に森があるよ」。
時風くんがキョトンとした表情で間地を見つめて答えた。
「そうだけど、帰らないといけないよ」。
間地はいつも十九時に家族そろって夕飯を食べている。そして今は十八時五十分になろうとしていた。今帰ればちょうど夕飯の時間だ。時風が黙って何か考えごとをしていたので間地は続けてこう尋ねた。
「今日はもう帰って明日また来よう」。
そうだ、明日また来れば時間がある。明日は確か晴れだったからちょうど良い。そんなことを考えながら時風の返事を待っている間地に意味不明な答えが返ってきた。
「明日はこの森ないかもしれないんだよ?」。
明日この森がないかもしれない? 疑問しかないその言葉は一旦置いといてすぐに返答した。
「すぐ明日の時間が来るよ」。
「ジカンって何?」
頭が地面に付きそうな勢いで時くんは首を傾けながら訊いた。
「時間は何って、時間は時間だよ」。
間地くんは子どもを諭すような口調で呟いた。
「ジカンってよく分からないけど、今、森の端を探さないと明日探さなくなるじゃん」。
時風は続けてこう言った。
「今、目の前に広がっている世界しか存在しないから、明日なんて待っていられないよ」。
さらに付け加えてこう言った。
「この森は今しかない。むしろ存在していないんじゃないかとさえ思うんだ。それを確かめるためにいつも間地と、この森で遊ぶんだ!」。
時風くんの瞳は、眩しすぎてあまり見えなかった。
このように、対照的な2人にとって、時間という感覚は大きく異なる。もしもこの2人が待ち合わせをするならば、おそらく時風が遅刻し、間地が待つという状況が容易に想像できる。時風にとって時間というものは概念に過ぎず、実体のないもの。それゆえ、目の前にある広い世界や未知なる好奇心を大切に生きているようです。それに対して間地は、時間という明確な概念をもっており、時折、時風が言っていることが分からないようです。このまま2人は理解し合えないままなのでしょうか。先ほどの話には続きがあります。
しかし、何故だか時風の瞳に輝く光は、全てを包み込むような温かさが感じられた。
それは、黄色の中から赤が浮き出てくるような色に感じた。
「時間は存在しない、時間は人が創り上げた概念にすぎない」。
時風の光に影響を受けたのか、間地はこのように考えた。だとしたら次に時風に聞く言葉は決まっている。
「もしかして時風って、恐怖とか不安を感じたことないんじゃない?」
「ないよ、だって恐怖や不安って瞬間の中にないじゃん」。
間地はこの時風の言葉で確信した。未来に対する恐怖や不安というものは、その瞬間実際に起こっている出来事ではなく、ただの空想である。思考や意識が現在という瞬間から乖離しただけなのだ。したがって、恐怖や不安は実体がなく、瞬間ではない。時風という存在は瞬間なんだ。
間地は時風に向かって笑顔でこう言った。
「瞬間瞬間、友達でいようね」。
「もちろん」。
そう答える時風の瞳は、いつにも増して光輝いていた。
私たちは、最初の間地のように時間は時間として過ごしている。時間は時間であると信じて疑わないことは現実的に見えて実は非現実的にも捉えられる。世の中から遅刻が無くならない理由は、人間は皆、同じ時間、同じ場所を生きている訳ではないからだと言えるのではないでしょうか。神の存在の有無は一旦置いといて、時間という概念が被造物なら時間を守る、遅刻といったことが地球上から一切無くなる。私たちは時間というものの上に生きているため、こういったことは現段階ではあまり理解できない。私自身もまだ完全には理解していない。社会を生きる上で全く時間を気にしないという生活は現状、不可能なので私も時折時間を確認する。時計を見た時、「もうこんな時間か」と思うときがある。その時、何故私は実体のない時間について何らかの感情を抱くのだろうと不思議な感覚に陥る。12時だから昼食を食べる時間なのか、深夜1時だから寝る時間なのか。それは特定の固定化された概念であり、時間に対して何かしら感情を抱くということ自体が、私たちが時間によって奴隷化されているという事実を示している。現代では、秒単位で技術が進歩していると言って良いほど目まぐるしく社会が変化している。それは社会に大きな恩恵をもたらした。一方で、時間に追われ、あたふたする日々を過ごす人も少なくない。それが自分の好きなことなら良いが、やりたくないことをしないといけない時間によって私たちの貴重な時間が奪われるということも案外多いだろう。そもそも、やりたくないことはやる必要がない。と言うか、「やりたくないこと」というものは存在しないのではないのでしょうか。やりたいことをやる。それだけしか存在しないのです。話を戻すと、時間についてですが、好きなことに没頭してるときは、時間という概念が存在しないと言えるような気がします。有り体に言えば、好きなことをしていると、あっという間に時間が過ぎ、反対にやりたくないことや退屈な時間はものすごく長く感じるということだ。そして、時間が存在しない時は、過去や未来というものが無く、今という瞬間に過去も現在も未来もある。例えば、貴方が好きな歌手のライブに行ったとする。会場には何万人もの観客と普段見ない煌びやかなステージ。何より1番輝いているアーティスト。会場が一体感に包まれ心地よい気持ちになる。そんな時に、時間を気にする人はいるだろうか。おそらく、いないだろう。正しくその瞬間は、今までの栄光や苦労、現在、そして思い描く未来、全てをその瞬間に体感しているので人々は心地よく不思議な感覚に包まれる。私たちは決して時間の奴隷になってはいけない。私たち自身が時間を創るということを常に忘れずにいれば、時間というものの本質に気づけるようになる。そんなことを言っても日常生活にどのように活かせばよいのかという問いがもしかしたらあるかもしれない。そんな人は、試しに休日の1日を使って一切時計やスマホを見ずに過ごしてみてはいかがだろうか。最初のうちは時間を確認しようと時計を見ようとする。しかし、次第に時計の存在を忘れ、最終的には時間というものから解放されてくるだろう。もちろん、自分の好きなことだけをするという条件を忘れずにだが。
時計の針は1秒に1回しか動かない。では我々は1秒に1回しか変化しない存在なのか。1秒の間に発生と消滅が数えきれないほど行われているとなれば、時計がいかに不正確なのか一目瞭然だ。私という存在は、決して時計の針と同じ速度ではない。私たち自身が時計でもあり時間なのだ。最後にこの言葉を貴方に贈ろう。
「ぼくの部屋には時計がない」。
最後まで読んで頂きありがとうございました。
「時間を忘れるほど」という状況における周囲の時空の歪みがどのような仕組みになっているのかとても気になります。まあ、いつか分かるでしょう。
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