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『人間は機械のバグなのか』著者:9月のワンピース

生息地、地球。二足歩行。酸素を体内に取り入れ、二酸化炭素を排出する。大地の上を自動車で悠々と走る。たった百年生きるだけで長寿と呼ばれる。様々な言語を話し、場所によって文化が全く異なる。そのためか、争いが絶えない。時にはアルミニウム合金の塊が空を駆けている。その光景は、まるであの頃夢見た姿にぴったりだ。我々は日々、空を見上げ夢を描く。空を飛びたいという純粋無垢な想いは機械によって再現される。我々は夢を構想し、意思疎通を取ることによって機械に一歩足を踏み出す。現代はその何歩目かの地点に立っている。明日はどの程度の歩幅で歩くのか予測不可能なほど変革の速度は止まることを知らない。機械化に伴い、人間が行う必要がない危険な作業や効率の向上など、想像さえ不可能であった生活を行うようになった。多くの人が機械化による恩恵を直接的、又は間接的に享受してきた。社会は間違いなく発展してきているように見えるが、実際にはどうだろうか。技術的な面においては発展しているのは一目瞭然だが、肉体や精神はむしろ衰えてきているのではないだろうか。物質的価値や娯楽、あらゆるコミュニティは現実世界から端末の内部に集約された。もはや機械の内部に人間が移住したと言っても過言ではない。もしも我々人間が完全に機械として生きることを目指しているならば、肉体が衰えてきていることは後退ではなく前進である。しかし、ここで問題点が一つある。それは、全ての人間が肉体を捨て、完全に機械として生きたいと満場一致で声を上げることは不可能に近いということだ。広義では人間は自然であり、宇宙でもある。しかし、人間には「個」という概念が存在している。個はそれ以上に分解できず、組み合わせて一つになることはない。何故なら、個は個でもあり、全体でもあるからだ。個を唯一、個として認め、終着点を個に帰す所に全体の中の個、すなわち個の中の個が在る。全ての個は自ら学習し、自らの発達段階を辿る。したがって、肉体を捨て、完全に機械としての存在を望んでいる人間がいる一方、あと僅かばかりでも人間としての生命を全うしたいと望む人間も確かにいるのだ。それらは同時に存在したとしてもおかしな話ではないだろう。広く表面を見てみれば、人間と機械の共存を謳う者もいるが、果たして全ての人間が共存という選択を想像しているのだろうか。ある人は、破壊のために自ら機械になろうとし、またある人は、人々を苦しみから解放させようと機械を駆使する。このような違いは常に存在している。我々人間は間違いなく機械の方へ視線を向けており、逸らしてしまうと社会では生きづらくなることもある。この時、本人は逸らしたのではなく自身の立ち位置を確認しようとしただけだと主張する。他の者はそれを不思議な表情で眺める。逸らす行為は必ずしも無意味なことではなく、逸らした結果、機械の本質に気づく場合もある。ここで想像もできないほど無限に広がっていて、あまり考えたくはないだろう人間とバグについて考えよう。機械は人間が処理できない膨大なデータを短時間で学習し、出力できる。目的地までの最短経路を提案し、長期記憶として文字や音声、映像などを保存する場所を持っている。人間の拡張機能として役割を果たしているようだ。そのため、現時点で我々人間は半分機械と言ってもあまり違和感がない。機械は最初から完璧ではなく、時折バグが起きる。むしろバグが発生しない方がバグのように思える。宇宙を巨大な機械と仮定した場合、宇宙の一部である人間も同様に機械と言える。地球は宇宙という巨大な機械の中に組み込まれている部品の一つで、人間はさらにその部品を構成する細かい成分である。細かい成分は確実に自身が機械を動かすために重要な役割を果たしている反面、表面に傷を付けている。それは一般に、自然破壊と呼ばれている。地球という機械の部品に傷を付けると、当然ながら宇宙の機能に損害を与えてしまう。その結果、我々人間はバグ(虫)と判断され、修正の対象となる。修正では、機械である我々人間が他の部品を破壊しない純粋な機械へ改善される。この修正こそ、技術発展と言われている営みなのだろう。そういう意味では、我々人間はバグの改善という名の技術発展に寄与しているとも言える。機械の性能を向上させるためには、我々人間が他の命を奪わないことや、直面している現状へ向き合う姿勢を整えることが先行すべき事柄だろう。人間が機械のバグであるかもしれないという思いは全て悲観的という訳ではない。仮にバグだとしても、人間には受け入れるという最大の武器を持っている。もちろん自身を機械ではなく、純粋な人間でしかないと捉える場合もある。人間たるもの、人間としての命が尽きるまで賢明に生きようとすることは、とても素晴らしい。人間は機械のように無機質ではなく与える、許すといった愛を持っていると誇りに思うこともある。機械になりたいのか、共存したいのか、それとも純粋な人間として生きたいのか。いずれも個の判断に委ねられる。他の生命への破壊等には全く関与しないバグも存在する。愛すべきバグたちは周辺を転がっている。しかし、我々人間には、バグだと一言で形容する短絡さより深く明瞭な機能があるようだ。それは人間としての性能か、それとも一種のバグなのか。人間は機械のバグなのかという問い自体が一種のバグかもしれないという皮肉さはなんとも興味深い。いずれにしても、欠けてはならぬ部分というものは共通しているように思える。その共通項を我々人間が誰一人として欠けることなく認識できる場所から、ようやく歯車が廻り始めるだろう。



最後まで読んでいただきありがとうございました。
バグと聞くと悪い印象を抱くかもしれません。しかし、機械や人間は予定調和にはいかないものです。バグを発見した時、修復しようと試みる度にかえってバグが拡大する。「修復」という行為自体がバグだったと後になって気づく。壊れかけの機械を愛せる寛容さを持ちながら日々を過ごしていけるのでしょうか。
人間も機械も、完璧にはなれないのです。


必ず目標である

「自分で書いた本を出版」

します。
そのためにnoteや各SNSに今まで書いた本を載せているので是非ご覧ください。心より、よろしくお願いします。

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