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『現代の死生観』 著者:9月のワンピース
何のために人間は生きているのだろう、と考えたことはあるだろうか。おそらく、何かに挫折した時、絶望した時、空を見上げた時、ふとした時に想像したことがある人は多いのではないでしょうか。生きているのに死を考えてどうなるのかという疑問がもしかしたらあるかもしれない。確かに、現時点では生きているのだが、来たる時に死は訪問してくる。それは、自死を除いた場合、自身の裁量で伸縮することは不可能である。今という瞬間は生きているので、死ぬという感覚が分からないが、生まれたら必ず死ぬ運命にある。生きている間に生を実感しようと必死に生きる。それは大変素晴らしいことである。必死という言葉を見てみると、必ず死ぬと書いてあることは、なんとも興味深いことか。必死に何かをしようとしている時、生を実感しているように思えるのですが、同時に死を実感しているのかもしれません。生を直視しようとすると必ず死が間近に迫ってくる。不思議なようで何も不思議なことではない。死は以前と比べて日常から少し切り離されたような気がします。僅か何十年か前に時代を遡ると、戦争が行われていました。直接体験したわけではないので確実ではないかもしれませんが、死体を見る機会が現代よりは多かったのではないでしょうか。人間が受ける情報のうち、多くの割合が視覚情報と言われているので、死を直接見た経験が多い世代の方にとっての死は、物質的な死なのかもしれません。それに対して現代では、親族のお葬式以外で直接死体を見る機会は中々ありません。しかし、ドラマや映画、ゲームなど映像系の娯楽媒体の中で登場人物が死ぬという機会をよく目にします。また、報道番組では、事件や自己、自然災害等によって死亡した人の数を見るため、現代にとって死は物質的な死というよりも、数字、もしくは精神的なものへと変化してきたのかもしれません。肉体的な死を遂げたとしても、本人の強い精神が残り続けることもあれば、肉体は存在しているけれど精神的に死んでいることもある。果たして両者の違いは一体どこにあるのでしょうか。現代において死は、物質的な死や非物質的な死のように、一つの概念では言い表せなくなったことでしょう。死は我々の内部、いわゆる生を実感するところに常に存在している。常に死を連想してしまうような日常はかえって死を促進してしまう恐れがあるので推奨は決してしないが、ふとした時に死とは何か考える時間はあってもよいと思う。中には、死を考えることは無意味だと考える者もいるだろう。そのように思う者は無理に考える必要はない。現代では、芸能人などの訃報を度々目にする。誰も自分が好きな芸能人の訃報を見たいとは思わない。それを見て人々は嘆き、恐怖に駆られてしまう。なんともいたたまれない気持ちを抱く。中には後を追う者もいる。それらの影響なのか、人間は無意識に死を恐怖の対象として捉えるようだ。もちろん、恐怖を全て取り除くことは困難だが、死は恐怖という一方的な煽りに自己の感性を全て影響される必要はない。死に対してどのように思うのか、どのようにありたいのか、そして死は本当に存在するのかなど全て自身で考え、決定するべきことである。それはすなわち、どのように生きたいのかという生に対しての考えへと繋がる。人間は自分の存在を自分だけのものだと思う。それは当然のことだ。自分が自分でないのなら、ここにいる自分は一体誰なのか不思議に思うからだ。しかし、本当に自分は自分だけのものなのか、いくら考えても説明することはできない。もちろん、自分は自分である。これに嘘偽りはないだろう。しかし、同様に、自分は自分だけのものでもないとも思うのだ。人間は自然の一部という言葉を一度は聞いたことがあるだろう。人間と自然は広義において、一体と言える。そうなると、我々人間が自分と認識している存在は自然の一部ということになる。自然の一部である我々人間の個の中には確実に自分という認識はあるのだが、それは全体の一部という場所における全体という解釈の方が合っているだろう。そういう意味では、自分は自分だけのものでもあり、全体の一部でもある。自分を強く意識すればするほど、死に対して恐怖を覚えるのではないでしょうか。しかし、死は全体の流れの一つに過ぎない。それは、生も同様である。生とは何か、また、死とは何かと考えている時にふとこのような疑問が浮かんできた。
「生と死は瞬間なのか、それとも永遠なのか」
この地球上の全ての人間の中に果たして自分が生まれた瞬間を見た者はいるだろうか。また、自分が死ぬ瞬間を見た者はいるだろうか。おそらくいないだろう。生まれた瞬間や死ぬ瞬間の記憶が無いということは当たり前のことだろう。しかし、本当に当たり前なのだろうか。今、この瞬間、自分という存在は確かにここにいるようだけれども、それは同時に、自分は今、この瞬間にここにいるということしか知らないことを意味する。私は、「生と死は瞬間でもあり、永遠でもある」と考えている。世の中には裏と表があるのと同様、生と死は視点が異なるだけで、本質的には一つと言うことができる。ここで言う一つとは、一つの全体ではなく全体の一つという表現である。一つのものというのは、瞬間に存在し、永遠に存在する。また、死んだら全て無くなって終わるという考え方がある。ここで言われている終わるという言葉は、おそらく現世のことだろう。そういう意味では終わるかもしれないが、実際には死んだら全て終わると思っていても世界は終わっていない。死が終わりと言うならば、始まりは生となる。しかし、宇宙全体を見てみれば、始まりもなければ終わりもない。よって、死は終わりを意味しないと考える。生も死も自然の流れであり、状態である。そのように考えると、死を過剰に恐れることがなくなる。現代においては、先にも述べたように死が日常から切り離された。人によって環境や捉え方が異なるので一概には言えないが、精神的に追い詰められた状態が続くと、死を意識する機会が増加する。死を意識すればするほど死に恐怖を抱き、再び精神が追い詰められる。死ねない自分に絶望するというような不思議な現象が現代では珍しいことではなくなっている。死にたいと思っている時ほど、生きたいと強く思っているのかもしれない。もしも死を意識することがあるのなら、同時に生について考えてみれば、防げる死がそこにあるかもしれない。人生において、流れに逆らって強く押し進んでいかなければならない時がある。その時に人は、流れに乗った方が楽だと思うことがある。しかし、最終的にそれは、流れに逆らっているというよりはむしろ、しっかりと流れるために水源を綺麗にしておく行為であることに気づく。どのくらいの長さを流れたのかよりも、どのように流れたかの方が大事だろう。生き様とは死に様である。死を受け入れるためには生を受け入れなければならない。同じく、生を受け入れるためには死を受け入れなければならない。現代では、生きる意味や死とは何なのか考えなければならなない出来事が社会に蔓延っている。次の瞬間、誰かが亡くなってもおかしくはない。身近な人が亡くなると、内側から不思議な感覚がこみ上げてくる。死の恐怖を完全に克服することは難しい。言葉では恐怖を感じないと言えるが、いざ直面すれば恐怖を抱くかもしれない。ならば、せめて強烈に生を実感できるような死を迎えたい。その時の表情は、人生で一番の笑顔なのかもしれない。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
生と死。とても興味深いですね。
話は変わりますが、死ぬまでに叶えたい夢があります。夢を夢のままで終わらせたくない人生にしたいので、下に書いておきます。
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