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『無知と知、そして無知』 著者:9月のワンピース
「ねえねえ知ってる?」
「なあにAちゃん?」
「来年の5月、地球に隕石が落ちてくるらしいよ」
「そうなの! 知らなかったわ」
「その隕石ね、地球より大きいんだって」
「え、地球どうなっちゃうの?」
「それはね、」
知るという現象は一体何だろう。
例えば、誤った情報を伝えられた人にとって、その情報を聞いたことが知るという行為に該当するのか。本当のことであれ嘘のことであれ、何かしらの情報を新しく受け取った時点で一応知るという現象は起きる。しかし、知るという現象はあまりにも曖昧に感じるのは私だけだろうか。普段、生活していると、あらゆる場面に情報が溢れかえっていることに気づく。今日の為替相場、天気、どの国が戦争をしているのか。知りたいという欲求は誰しも持っているが、情報が複雑で膨大なために、かえって知るという現象にノイズが生じてしまう。このノイズ自体も情報の一部と言えば一部だが、混乱が生じるだけだ。貴方はこの文章を読んで一体何を知ったのだろう?
賢者は後から知ったことを知り、
愚者は先に知ろうとする。
「言ってくれないの?」
「そういうわけじゃなくて、その、」
無知な人は生きていけるのか。どこからが無知なのか。
私は無知なので分からない。世の中のことを全て知っているような人でも知らないことの方が多い。いや、無知と言っても過言ではない。無知を恐れる必要はない。何故なら、人間は無知のままこの世を後にするからだ。ここで言った無知とは愚かという意味ではない。自分が無知であると知った瞬間、その人はその事実を知ったことになる。そうやって人々は知っていく。
無知は2種類あると考えている。
積極的無知と否定的無知だ。積極的無知とは、知ろうとする過程で生じる無知。これはさらなる知を求めるために一時的に生じる無知なので、ある過程を経て積極的無知は知へ変化していく。それに対して、否定的無知は、知ろうとしない態度が招く無知。これは、知ろうとしないという態度が変わらない限り知へ昇華することはない。知に近づこうとすると必ず無知にたどり着く。皮肉なものだ。
無知は恥ずべきではない。
真に恥ずべきことは無知だと気づかないことだ。
「知りたいな」
「どんなことであっても知りたいって思う?」
私はいつか死にます。それは皆さんも同じです。これまでの歴史のなかでも、人は誕生しては亡くなり、また誕生しては亡くなる、その繰り返しです。繰り返しの中に肉体は残りません。しかし、何年、何百年、何億年と繰り返していく中で残り続けるものがあります。それは知識です。知識なくして世界は存在するのかと言うほど知識は偉大です。あらゆる苦悩から知識は守ってくれます。知識はあまりにも巨大な力をもっているので、時に歪曲されたりするでしょう。例えば、あなたが歪曲された知識を得たとしよう。あなたにとってはその知識は真実になります。あなたは与えられた知識を疑うことはしません。その知識をもとに行動します。その結果、あなたは精神が崩壊します。この一連の流れは過大に述べているつもりはありません。「この場合は○○をすれば良い」という知識を与えられたとしても疑うという知識を持っていない場合、どこかに歪曲された知識が衝突する時が来ます。
その矛先があなた自身にならないことを願って。
本物の知識人は知識をひけらかさない、
守り、愛するため、静かに知識を行使する。
「うん、知りたい」
「じゃあ教えるね」
この人は知識が豊富と思う人がいるかもしれない。その人物を見て貴方はこう言った。
「羨ましいな」。
ここでは何を羨ましいと思うのだろう。単純に知識が豊富であることに対して羨ましいと思うのか、はたまた知識が豊富ならお金を稼げるのではないかと思うから羨ましいのか。その人自身にしか分からない。知識が豊富な人というだけで羨ましがるが、彼らは何もない所から知識を得たわけではない。両親や友達、先人たちの知恵などを基盤に彼らの知識は豊富になる。しがたって、知識は彼ら一人の中に独立しているのではなく知識は全ての人、全ての場所で繋がりを持っている。したがって、知識は集合体とも言えるだろう。知識はより専門的で物質的な知識ばかり崇高されているが、もっと本質的で非物質的な知識も同様に素晴らしいものだ。例えば、何故私たちは人間なのか、何を成すべきなのか、私とは本当に私なのか。あまり世には出ていないが、純粋なる知識はどこかにある。それらは歪曲されまいとゆっくりと静かにそこに佇んでいる。その姿はまるで風になびく葦のように。
知識は裏切らないが知識を餌に裏切る者はいる。
「今から○○年後に、地球と---が、~してね」
「!?!?!?!?!?!?!?!?!?」
「知らない方が良かった?」
知りたいことがある時、私たちは調べる。調べた後には知らないことが知っていることに変化する。知ったことを単純に忘れることはあるが、知ったこと自体が知らないことに変化することはあるのだろうか。知らないことは知っていることに変化するが、知っていることが知らないことにならないのは不思議に思う。私たちが普段、知っていると思っている事柄に限って案外知らないことなのではなかろうか。全てのことを知るというのは素晴らしさよりむしろ恐ろしさを抱く。全てを知ってしまったら、果たしてその瞬間貴方はどうなるのだろう。おそらく、私は全知全能であると豪語するほどの楽観的観念ではなく、反対に圧倒的な無知さに気づくだろう。知りたい事柄は知らないから知りたいという欲求が芽生える。そういう意味では、まだ知らないことで満ち溢れた世界でいて欲しいのだ。
知の欲求は静止を知らない。
知は無知であり、同様に知である。
「いや、びっくりしただけだよ」
「なら知って良かったってこと?」
「うん。でも正直に言うと知りたくはなかったけど、知らないといけないことだったって感じかな」
「何で知らないといけないって思ったの?」
「だって、知りたいことだけを知るのは傲慢だと思うんだもん」
「なんか深いね!」
「知りたいことだけを知る方が楽なんだけど、知りたくないことこそ今知るべきだと思うの」
「知りたくないことって?」
「それはね、私たち自身のことだよ」
「私たち自身のことかー、」
「Aちゃんは色んなこと知ってるから向き合えると思うよ」
「そうかなー?」
「うん、きっと大丈夫だよ」
「そう言われたら大丈夫な気がしてきた!」
「ところで、話の続きを聞かせて」
「あ、そうだったね!」
「地球はその後どうなったの?」
「地球は、~‼#”になって、その時地球人は---.%$」
「そうなんだ! 楽しみだね」
「うん。お互い大変になるけどまた会おうね!」
「もちろん」
今回は、無知と知についてでした。
物事を知れば知るほど、自分の無知さを実感します。
きっとこれからも無知さと付き合っていくことでしょう。
それが最終的に英知になっていくのです。
ということで、夢である
【自分の本を出版する】
に向けてnoteや各SNSに本を載せています。
少しでも良いので是非、ご覧下さい。
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