俺の家の話
3月1日は父の60歳の誕生日でした。
いい思い出は少なく、酔って帰ってきては絡まれる。家はヤニの跡だらけ、酒とタバコと将棋が好きなそんな父です。
ちょうど1ヶ月前の2/23 9時頃にに息を引き取りました。肺がんでした。
なかなかな内容なので、ここで読むのはやめてもいいかもしれないですね。
書く必要ないんですけど、なんか今思うことを残そうと思って書いてます。
まあ、続きを読む人はお付き合いください。
僕のことを変なやつと思うかもしれないですけど。笑
思い出
思い出は0ってわけではなく、懇願して連れていってもらったあやめ池遊園地、ディズニーランドにも家族4人で行って妹がまだ小さくスペースマウンテンに二人で乗ったり、直接的な思い出ってこれくらい。まあ覚えてないだけかもですけどね。
記憶にはなけど(幼少期)社員旅行でハワイに連れていってもらってました。笑
家族という面においては外面が良い父だったので、ある日、学校へ行くと「昨日お前のオトンにアイス奢ってもらったで」って。ことがちょくちょくあったり。(もちろん酔った状態でしょう)
行きつけの呑み屋で出会った人と仲良くしてたり、とたぶんそういう友達が多かったんじゃないんかなと思います。
アイス好きの九野家だったからなのか、酔って帰ってくる時に大量のアイス(レシート見たら¥8,000-くらいやったはず笑、もちろん全てアイス)を僕が冷凍室へちゃんと入るようにしまうということもよくありました。
変なエピソードは多いけど、「大好きな父です」とかはなく、むしろこんな父親にはならないでおこうと子供の頃から考えてました。全く家事しないし、服脱ぎっぱなしみたいところとかね。
なんやったら「子供が嫌いや」とも言ってたくらいです。
姪っ子が生まれてからは考えられないくらいデレデレしてましたけどね。笑
「孫はなんか可愛い」って言ってたな。
肺がん
『1日に2箱』がアベレージ。そらぁ肺がんなるよねって思います。
がんが見つかってからはさすがにスパっと辞めてました。手術して仕事復帰してましたが、去年の今頃に再発。
この頃にはもう長くないんやろうなぁ
と思ってました。
最期の日
年末には主治医から春まで保たないという話があり、本人にいつ伝えるのか?という状態で年末年始を実家に帰り家族で過ごしたりといつもと違うことをしていました。こういう感が鋭い父は薄々気づいてたんじゃないのかな。
本人の心理状態や健康状態などもあり、そのまま伝えないまま最後の日を迎えました。
結果から言うと最期を看取ることができましたし、鎮静剤(最期が苦しくないように)を打つ前に会話もできました。
妹は別の日に感謝してることとか伝えたいことを伝えたみたいですが、僕と父の関係はそんな改まった話をする間柄じゃなかったので普通の会話しかしなかったけど、最後に会話出来て、背中が痛いって言うから背中をマッサージしてあげたり出来たのは良かったなと。
鎮静剤って呑兵衛の人は効きにくいそうで、半覚醒状態になってる父は物音で起きてしまって酸素マスク外してしまったりとしてました。呼吸は本当しんどそうで、それを見てるのも少し辛いくらい。
夜が深くなるにつれ少しずつバイタルが弱くなっていくけど朝を迎えるまでは保ってました。ずっと目閉じてを眠っていたのが亡くなる直前は急に目を開いて少し弱い呼吸を2回くらいして、すっと逝きました。
呼吸がずっとしんどそうだったんで、楽になれたなって、良かったねって気持ちともに泣きました。
正直いうと、父が亡くなっても泣かないやろなって思ってたんですけどね。
この瞬間に立ち会えて良かったなと、特別な瞬間だったなぁと思います。
その後
僕は長男ですし、母は離婚もしているので喪主を務めることになりました。
ここは事務的というか、喪主としてしたことを書いておきます。
病院側から葬儀屋さんの紹介があったりします。葬儀屋が決まったら病院側へ遺体の引き取りにくる会社名伝えました。
今までお葬式って会場と葬儀屋は同じ運営だと思ってましたが、葬儀屋・葬儀会場・火葬場って全部別でした。移動が大変だなって事で葬儀会場と火葬場が同じになっている場所を選択しました。
葬儀自体もコロナ渦ということもあり、お通夜なしの1日葬とかあるみたいで、色々悩んだんですがお通夜もする形式で家族葬を行いました。
10年くらい前にじいちゃんが亡くなった時、順番的に自分がやらなアカンなって思って見てはいましたが全然思っていたよりやる事いっぱいありました。コロナ渦でなければ会社の人・呑み友達・田舎の人たちも参列していてたくさんの人に見送られるはずだったと思うと、本来やることはたくさんあったんだろうなと思います。
お通夜では、父の幼少期や喘息がひどくて田舎の小豆島へ一人送られてた時の話とか、いろんな話を叔母たち(父の姉と妹)から聞きました。
初孫の僕にとっては優しく照れ屋なじいちゃんでしたが、子供たちには相当ひどい父親だったみたいで(笑)、劣悪な環境から父が大学へ進学せずにタイル職人として働いて九野家を立て直した話など、まあ面白い話をたくさんしましたね。
葬儀は、特に何もなく棺桶に花をパンパン入れた時は、なんて花が似合わないんだと少し笑ってしまいました。最期に長い事吸えなかったタバコ2箱・キャスターマイルドを入れました。
実家の事などの手続き系だったり、四十九日やお墓のことなどやることいっぱい残っています。
最後に
父親としては反面教師でした。僕の年齢時点では5才と1才の子供を育ている父。子供いなければ、結婚もしていない僕ですが。。笑
感謝しているし、男として尊敬もしています。
最後まで生きようとしていたし、病気とも正面から向き合って闘っていました。弱音も吐かずに。
父らしい人生というか、最期だったのかなぁと思います。
小豆島時代の友人
従兄弟・伯父
長女・長男・次女
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