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妻が好きでたまらない

 十六時にはソワソワしている。仕事なんて十七時半に切り上げて真っ直ぐ家に帰る。だからと言って業務を疎かにするわけではない。利潤第一主義社会で末永く妻との時間を重ねていくためには、なによりお金が必要であることを知っているから。俺が死んでもほかの男に頼らずに生きていけるよう、住宅ローンには団体信用生命保険。そのほかにも十分な生命保険を掛け捨てている。
 最近では妻が先に死んでしまうのではないかと気がかりでならない。体重は俺の三倍を超え、玄関から外に出ることができなくなった。ただいまのハグでその大きな体に腕を巻きつけることは容易でない。肉にぬるりと腕を食いこませて背中を手繰り寄せる。自分の指先が触れ合ったときの達成感、そこからさらに自分を妻に埋め込んでいく時の多幸感。彼女の体調を気遣いつつ、もっともっと大きくなればいいと願っている。大好きな妻が部屋いっぱいに満ちればこの上ない。米は五合焚いておけば大丈夫かしら。鶏モモ肉ブロックは五枚揚げれば足りるかしら。健康のためにバナナを一房。最近ではさらによく食べよく肥える。その肉体に埋没する日は近い。妻に負担をかけないよう、俺はもっと細くなったほうがいい。ウィスキーに鶏のささみ肉を少々。かつて細マッチョが好きだと聞いたことがあったような気がするよ。大抵の女子は細マッチョが好きなんだろう。細マッチョの俺がどこまでもふくよかな妻を纏う。全身で妻の存在を感じていないと不安でたまらない。豊かな肉体に埋もれていないと生きた心地がしないのだよ。L'essentiel est invisible pour les yeux. それは俺が最も嫌悪する言葉だ。大切なものは確かな存在感で目の前に立ちはだかっているべきだろう。
 誰もが仕事なんて十七時半に切り上げて真っ直ぐに家に帰るべきなのだ。マンションのドアを蹴破り、日増しに肥ゆる妻に向かってダイビング。肉に腕を食いこませて背中を手繰り寄せる。両足を巻きつけて股関節をきつく締めあげ、尚も引き寄せる。妻は嗚咽を漏らした。両膝から崩れ落ち、そのまま細マッチョを押し潰すように倒れ込む。俺は後頭部を強打、一筋の光も届かない暗黒の世界が広がった。遂に妻を纏うことに成功したのか。言葉にならない。息が詰まる。気が遠くなる。重いよ。でも、大丈夫。末永く妻との時間を重ねていくにはお金が重要であると知っているから。住宅ローンにはもちろん団信。そのほかにも十分な生命保険をかけている。俺は全身で妻の存在を感じながら人生を全うするのだ。
 あれ。なにかしら。はじめは妻の心臓だと思ったんだよ。でも、それにしては不規則な運動で、なにかが妻の中で蠢いていた。五感を研ぎ澄ませ、混沌を掻き分けながら蠢くゾーンへとアプローチする。俺は確信した。そこには俺と妻の融合体が潜んでいる。俺たちは融合や分裂が許された生命体ではなかった。俺と妻の融合は次なる個体に託すほかない。プツンと肉のダムが決壊したかと思えば妻は破水した。俺は火事場の糞野郎。梯子車を呼ばなければならない。マンションの玄関から出ることのできない妻はベランダから出すほかない。羊水にまみれた俺は妻の股ぐらから這い出す。そして、両手にプライベート携帯と会社携帯を握った。左耳にあてながら救急要請、右手で育休申請。携帯端末を放り投げると、妻を抱えあげてベランダに立つ。星空の下、俺たちは抱合に続いて咆哮。

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