オイ、人間
人間はもう終わりだ!
ループしたまま頭を離れない。最新のヒット曲ではない。ポピュラー音楽に多少興味を持った同世代ならば知っているでしょう。真心ブラザーズ。メジャーな曲であるのか知らないけれど、蔦谷で借りたベスト盤には入っていたよ。ネットを叩けば二〇年も前の曲らしい。二一世紀の幕開けだ。俺たちの未来は幕が開いてから早二〇年が過ぎた。どんな時代にも人間なんてララランなんて曲があって、こいつは俺にとってのニンゲンソング。
アイ・ショット・竹中平蔵なんて唄を書いて光を浴びたい。それでも、あいつがどこまでの悪で、この国をどれだけ腐らせてきたのか、いまいち理解していない。ただ資本の増大に執着、中抜きは九割のアイコンとして認知している。みなさん野垂れ死んでくださいと、あいつらははっきり言わん。肝心を避けて上面な言葉に拳を握る。
拳銃の手っ取り早い入手方法はやっぱり警官殺しかしら。救いと言えば、あいつらが俺よりも遥かに年上だということ。いつか死ぬ。いつか絶対死ぬ。普通に生きていれば、あいつらは俺よりも先に死ぬ。だから、自分の健康には気をつけて。週に二日は酒を抜く。あいつらのいなくなった世界を悠々自適に楽しみたい。
なにより気がかりなのが、瀕死寸前のこの地球。あいつらは全てを吸い付くして死んでいく。欲の限りに味わい尽くして地球とともに死滅するのが理想なのか。指を咥えて死ぬのを待っていたらみんなで仲良く滅亡する。安心している人間が嫌いだ。誰が言った。非合法の暴力を否定するつもりはない。三島だ。一対一の決闘の思想を持ってすれば政敵の暗殺も厭わない。近代ゴリラだ。拳銃の手っ取り早い入手方法はやっぱり警官殺しかしら。
中二になった小僧は、未だ休日になれば「サッカーボールを蹴ろう」と俺を誘う。妻はそろそろあいつに性教育が必要だと言いはじめる。俺は苛々している。新しいスパイクが欲しいとあいつは言う。俺は苛々している。性教育に関するテレビプログラムを録画したから一緒に観ろという。俺は苛々している。小僧の未来に地球が無事であるよう祈っているくせに、あいつと遊ぶことすら拒んでいる。あいつが将来困らないよう性教育を受けさせることが、無上に面倒臭い。友達と遊んでくれ。勝手に学んでくれ。俺は苛々しているのだ。愛するおまえのため、こんなに社会を憂いているのだ。もう少し苛々させないよう気を配ってくれないか。
「偏差値五〇も無いようじゃ、大学なんか行けないぞ」
自分の顔面に拳を食らわせてやりたい。餓鬼の頃から勉強は多少できた。運動は音痴だ。性教育なんか受けなくとも、なにか困るようなシチュエーションに出くわしたことはなかった。俺はもっと楽がしたい。易々とおまえの未来を守りたい。
「土日、ちょっと一緒に勉強するか」
小僧は渋る。そりゃそうだ。あいつは俺とサッカーボールを蹴りたい。
「いいお父さんでよかったね」
妻が追い込む。小僧の中に、俺の申し出は有り難いことなのだという価値観がねじ込まれる。あいつは唇を噛んでそいつを受け入れた。平日は身を粉にして働き、週末は勉強の面倒を見るのだ。一時間で勘弁してくれ。早々に自分なりの勉強方法を見つけてくれ。
高校受験を越えて、大学受験を越えて、就職試験を越えて、その先にあいつの平穏な生活が待っている。なんてレールを走る列車のシートはグランクラス。幼いころは電車の運転士になりたいと言っていた。おまえが大人になる頃、人間は遠方まで移動するというニーズがあるだろうか。最近では、サッカーの実況中継がやりたいなんて言っている。プロスポーツには、まだまだ人間を感動させる余地があるだろうか。テレビは消えるだろう。それでもダゾーンとかあるじゃない。ネットビジネスはまだまだ将来があるかしら。仮想空間の活用方法を十分に理解していないが、電車の運転士より将来性があるのではないかと検索する。
三五年ローンを組んで一〇年。俺だってまだまだ働かなくてはならない。ポイント・オブ・ノーリターンまであと数年と言われる昨今、ローン返済は一体どうなる。あいつに教育を受けさせ、住宅ローンを完済する。そいつが人生の目標とは思わん。それでも、愛すべき家族のため、これが俺のプライオリティーと受け入れる。資本増大執着主義の国家で、なんとか己を満たし、楽して生活費用を稼ぐことはできないか。
ライ麦畑のキャッチャーが何より素晴らしい仕事だと感化された頃もある。最近だと、全国ツアーを回るミュージシャンのお抱え運転手になりたいなんて夢想する。「グリーンブック」という映画を観たばかりなのだよ。面倒臭い男たち。強く賢い妻。男が考えそうな設定だ。泣けるシーンがなかったのが救い。要所要所できちんとオチがつく。竹中平蔵をシュートしたいほど資本増大執着主義を憎んでいるくせに、アマゾンプライムで鑑賞したの。嗚呼、俺の馬鹿。馬鹿な俺。言い訳がましく言うけれど、契約した覚えはないのだよ。俺のミスだろうか。妻のミスだろうか。小僧がネットでなにしたことはないだろう。
「なんか最近送料かからないよね」
「知らん。俺、ネットで買い物しないし」
アカウント情報を調べてみれば年額を取られているではないの。ならば無料で観られる映画くらいは観てやれ。モノは買わんで地元に払う。俺なりの線引きでアマゾンを活用することに決めた。
それにしてもお抱え運転手。二ヶ月間、はじめて出会った男と二人旅をする。家族とも離れてひたすらハンドルを握る。家族との関係を絶ちたいと思ったことはない。収入を維持して家計を支え続けたい。それは心から思えることで、俺の価値なんてそんなものでいい。出世欲は無いが、現状維持は欲している。金というものが未だ信頼されている社会で、そいつを家族に供給し続けることに対し、多少の満足感、もしくは達成感と呼んでもいいようなポジティブな感情はあるのだ。
それでも人間と人間。距離を置いてみたくなることもあるでしょう。ビジネス向けのリンクドインでアカウントを取っている。長年会社員をしていれば、期待を煽る情報は流れ込むが、音楽家のお抱え運転手なんて仕事は舞い込んでこない。
それでも強く願っていればなんとかなる。ある程度。チャンスを逃すまいとアンテナ張っているのだから。僅かな巡り合わせに手を挙げる。欲を言えば、金持ちの音楽家に誘われたかった。新太はどこにでもいるような駅前広場の路上音楽家だった。手売りで一〇〇万枚を目指すと豪儀なことを言う。それでも自分で焼いたCD-Rは五〇〇枚に満たない。
「ダウンロードも含めてね」
新太はパンパンの顔で笑った。「声がいい」と多少SNSで話題になっていた。出る杭を打つ輩は一定数。「声がいい」なんてやつは幾らでもいる。成功者以外は否定するな。新太がいくら歌ったところで明日も陽は昇る。
鞄が壊れると路上音楽家が儲かる。
駅前まで足を運んだのは、ミスター・ミニットだか、プラスワンだか、修理屋があることを思い出したから。仕事用のリュックサックが使い物にならなくなったのだ。サムソナイトだぜ。多少奮発して買ったのに、サイドポケットのチャックがすぐにやられた。続いて、一番長いチャックも解れてきた。メーカーのサイトを見れば、チャック一本で修理に一万円は越えるという。しかし、そいつは製造屋だけの悪徳商法ではないようだ。ミスター・修理屋は、メジャーを当ててチャックの長さをはかると、製造屋と変わらない金額を告げた。
「ちょっと、考えます」
新品買っちゃおうかな。早くも足が東急ハンズへ向かいはじめるが、それではあいつらの思う壺だ。所詮、修理屋も製造屋も資本家の手のひらで転がる。チャックが駄目なら、洗濯ばさみで止めておけばいい。踵を返してショッピングモールを後にしたところ、新太の歌声が割り込んできた。
いいな いいな 人間っていいな
新太から一〇メートルほど距離を取ったところには手を取る親子。飛沫対策かしら。そんな歌を今の子供たちが知っているのかしら。音楽の教科書にでも載っているのかしら。母親が懐かしんで立ち止まったのかもれない。
でんでんでんぐり返しでバイバイバイ
親子は拍手もせずに去っていく。座り込んだ新太の脇にはCDの詰まった段ボールが置かれていた。極太マッキーで「目指せ一〇〇万枚」と書かれている。
「一枚、買うよ」
そんな声を掛けたのは、修理屋にも、製造屋にも金を使うことをやめたから。新太のCDを写真におさめて「一〇〇万分の一枚買いました。#新太」と垂れ流すことが粋なことのように思えたから。
俺は財布から一〇〇〇円札を一枚取り出す。新太は段ボール箱から一枚を引き抜き、立ち上がる。そして九〇度に腰を曲げながらCDを差し出した。
「ありがとうございますっ」
駅前広場に響き渡る声。俺は顔が熱くなり、咄嗟に一〇〇〇円札と引き換えた。
「これ唯一のオリジナルソングなんです」
新太は一〇〇〇円札をポケットにねじ込んで歌いはじめた。生歌も商品の一部なのか。この場を去るわけにもいかない雰囲気。そんな大きな声を張り上げて、小さなマウスシールドに効果はあるのか。最低でも二メートルは確保しなければならない。俺はジリジリと後退る。真正面でない方が良いだろう。俺は左へサイドステップ。すると、新太はこっちに顔を向ける。俺は右へサイドステップ。やはり、新太はこっちに顔を向ける。俺は左右にステップを踏みながら徐々に後退を続ける。あいつが立ち位置を変える様子はない。なんとか安心のできるディスタンスが確保できたところで歌は終わった。なんの歌であったのかまるで分からないまま俺は小さく拍手を送る。そして、また直角に腰を折る新太に小さく手を振った。
家に帰ると驚いた。うちの小僧が同じCDを持っているというのだ。
「いいないいなのヒトでしょう」
それも無料で貰ったと言うではないか。SNSを駆使しているわけでもない小僧にモノをくれたところで宣伝効果はない。親父にすら伝わっていない有り様だ。
「よくそんな歌知ってるな」
「ユーチューブで見た」
小僧の情報源は大抵それだ。
そんな思いがけない出来事も俺の背中を押したのだろう。気づけば新太のお抱え運転手だ。
「たった一曲しか入っていないCD-Rが一〇〇〇円かよ」
俺はぼやきながら自棄になって何度もリピートした。一五年以上も昔に買ったソニーのスティック型デジタルウォークマンに取り込んで、鼓膜を揺らした。かつてソニータイマーなんてことも囁かれていたが、こいつは随分と長持ちしている。そろそろ無線イヤホンに対応したモデルに切り替えたいと思いつつ、未だに耳からコードを垂らしている。
品のいい言葉選びだ。多少ハスキーなれど品のいい声だ。この品のよさが弱みになっているのではないかと分析をする。弾き語り青年に興味を持つおっさん。要するに、若かりし頃、同じような夢を抱いたわけだ。バンド仲間とスタジオに入る。下手な演奏は学内イベントでしか披露する機会がなかった。
駅前広場をだらだら歩いて新太の姿を探す。次に顔を合わせた時には、CDを買ってから一月が過ぎていた。あいつは相変わらずパンパンの顔で、CDの在庫を抱えて、ギター一本で座り込む。フラワーカンパニーズ「ハイエース」を歌っていた。知っている歌だった。ユーチューブばかり見続ける小僧からパソコンを奪い取り、何度かミュージックビデオを鑑賞した。
「あのビデオ最高だよね」
声に出していた。新太は「歌の中を」と繰り返し、最後にジャラン。俺を見上げた。
「あ、おっさん」
二度目の顔合わせだ。気さくにもほどがある。そんなことで社内人やっていけるのか。説教の一つも垂れたくなるおっさんの腐れ根性を必死に押し殺した。
「ハイ、イエス」
無理に笑う。
「車の運転でも出きれば、もっと遠くで歌えるんだけどな」
機会は逃さない。
「おっさんは運転できるぞ。車ないけど」
「車は持ってるぞ。免許ないけど」
そして、機会は逃さない。
「ハイエース?」
「ハイ、イエス」
パンパンの顔がさらに膨らんだ。
家には親父さんのハイエースがあるけれど、免許は返納したそうだ。そんな年寄りの親父さんがいるようにも見えないが、深掘りする意味はない。俺には免許がある。新太の家には使われなくなったハイエースがある。
翌週、教えられた住所をスマホに打ち込んで、あいつの家へ向かった。門の前には好好爺が一人。爺さんなのか。親父さんなのか。
「こんにちは」
頭を下げて様子を伺う。好好爺は無言で頷く。細めた目に何が映っているのか分からない。するとギターケースと段ボール箱を抱えた新太が飛び出してきた。
「この前話した友達のおっさん」
この世の全てに無言で頷くべきと、好好爺は悟っているようだ。俺の親父でもおかしくないほどの爺さんだ。職場の友達という体であれば、こんなおっさんでも不自然はないだろう。
こうして俺は後部座席に路上音楽家を乗せてハンドルを握ることになったのだ。とは言え、こっちは家族持ちのサラリーマンだ。金にならない労働に、数ヵ月も家を空けるわけにいかない。あっちだってきっとどこかで働いている。俺は週末限りのお抱えドライバーとなった。CDの売り上げの一〇パーセントはいただけるという。煙草代の足しになればラッキーだ。
「次、右な」
カーナビはない。スマホのマップを眺めるあいつの指示通りにハンドルを切る。ヒトの集まる街中へ向かうのかと思えば、随分と見晴らしのよい田園風景が広がりはじめた。
「どこ行く気だ?」
「もうちょっと北のほう」
「北ね」
新太に指示されるままたどり着いた場所は、都内最大の水郷公園だという。サイドブレーキを引けば、新太は背もたれをフラットに倒し、車の中からリアゲートを持ち上げる。足を垂らして腰掛けると、エンジンを切るよりも先に歌いはじめた。夢中になれるものがある若者は美しいじゃない。俺は役目を終えて、あいつの声に鼓膜を揺らす。背もたれを軽く倒して一服する。弦を弾いて喉を震わせる新太。リアビューミラーで様子を窺えば、多くの車が停まっているもののヒトはまばら。車を止めた連中はすぐにその場を去っていった。公園の案内板には菖蒲が見頃であると書かれている。こんなところよりいつもの駅前広場のほうが立ち止まるヒトは多いのではないか。
あいつは構わず二曲目を続ける。無視され続けることには慣れているのだろう。俺だって仕事でアポが取れないことはある。メールを送ったところでスルーされることもしばしば。それでも無人の会議室でプレゼンテーションさせられた覚えはない。近いことはあった。地元代理店に集客を任せたまま飛行機で飛んだところ、セミナールームには誰一人いなかった。それでも、無人の空間でセミナーは強行しない。バナナの叩き売り営業だったらまた違ったかしら。無人の空間でがなり声をあげる。ヒトが集まるまでがなり声をあげる。如何にバナナが甘くて安くてお買い得かを訴え続ける。声もかすれる。
新太はどんな思いで三曲目をはじめたのか。遠目に一人の餓鬼が立ち止まっている。ここで唯一のオリジナルソング。品のいい言葉選びだ。多少ハスキーなれど品のいい声だ。この品のよさが弱みになっている。俺はそう分析して勝手に気を揉むが、何ができるでもない。エンタメ業界で働いたことなどない。実用性のない商品なんてどうして売り込んだらいいものか。スティーブン・キングだったらなんと言う。どうやってあいつの叩き売りをするだろう。
「芸術家が役立たずだと言うんなら、音楽に耳を塞いでいろ。本を燃やしてしまえ。詩なんか政治屋に任せて、映像なんか広告屋に任せて、絵画にも目を伏せろ。いつまでも膝を抱えて自粛要請に応じていればいい。そいつが嫌なら一〇〇〇円持ってこい。たった一〇〇〇円で豊かな自粛生活があんたのものだ」
とは言え、ここは水郷公園。家族総出で菖蒲なんかを拝みにきている連中だ。飯を食う以外の豊かさを、水郷、草花、青い空に求めている。新太の歌がそれらに敵うのか。首を振って天井へ紫煙を吐く。俺はあいつのマネージャーではない。ドライバーに徹していればいい。一〇パーセントの売り上げを受けとることができなくとも。
三曲を歌い終えると、あいつはさっさとギターをケースにしまいはじめた。
「なんだ。もう終わりか?」
「誰もいねえや」
「場所変えるか?」
「そうだな」
新太はギターを車内に戻すと、トランクを漁りはじめた。取り出したそれは釣竿か。
「おっさん、釣りするか?」
突然の申し出に、半開きになった口から煙が漏れる。釣りなんて、餓鬼の頃のわずかな記憶しかない。友人の親父さんに連れていかれたが、二秒で飽きた。
「もう歌やめるのか?」
あいつは頷く。パンパンの笑みにノーとは言えない。公園の溜池が釣り場になっているらしい。妙に詳しいのは、免許を返納する以前、爺さんと釣糸を垂らしに来たことがあるからだという。ヘラブナ釣りで知れた場所だとか。鯉と鮒の見分けくらいはつく。爺さんとの釣り話を続ける新太に頷き、俺はもう一本の煙草に火をつけた。
「煙草は?」
「吸わない」
「シンガーだもんな」
返事はなかった。
溜池は賑わっていた。釣糸を垂らしてじっと浮きを見つめる釣り人たち。賑わっているという表現が適切であるのか知れないが、釣りキチや釣り子にとってはなによりも豊かな時間なのであろう。
「エサ買ってくる」
溜池の側には釣具屋があり、酒屋が並んでいた。缶ビールの一本でも飲みたい陽気だ。途端にドライバーという立場が損な役回りに思えてくる。
何本目かの煙草に火をつけて、気まぐれに釣糸を垂らす新太の背中を写真に納めた。途端、妻からメッセージが入った。
帰りに醤油買ってきてくれない?
ご丁寧に有機丸大豆醤油の写真まで張り付いている。りょーかいのスタンプを返せば、サンキューのスタンプが送られてくる。それ以降、連絡はなかった。俺が返す番なのかもしれない。本当は醤油を頼みたかったのではなくて、俺がどこで何をしているのか探りかったのではないか。そんな気もして、新太の背中を添付して送ってみる。
釣り???
ちょっと休憩中。
長そうな休憩。
確かにそうだ。休日を返上してこんなところに来たのは、こいつを釣り場に連れてくるためではない。弱い引きを釣り上げれば小さなクチボソ。新太はハスキーに溜息をつく。
「随分ヒトがいるじゃないか。ここで歌ったらどうだ」
「釣り場と図書館は騒がないもんだ」
爺さんの教えか。
「おまえ、歌いに来たんだろ。CDだって売れてねえぞ」
「売ってきてよ」
段ボール箱を抱えて売り子の真似をする自分を思い描く。
「んなことやるか」
後頭部に蹴りでも見舞ってやりたい。そんな衝動に駆られた瞬間、竿が大きくしなった。
「お、でかいでかい」
浮きが大きく沈み混み、水面が大きく揺れる。確かに大きそうだ。狩猟本能だろうか。こっちまで興奮が伝わってくる。
「おっさん、ちょっと、タモ」
「タモ?なんだタモって?」
「網ぃ」
網って言えよ。俺は地面に寝かされたタモとやらを拾い上げて新太に差し出す。しかし、あいつは思いがけない引きの大きさに釣竿を両手で握ったままだ。
「よし。じゃ、俺が捕まえるから、ちょっとこっち寄せろ」
俺は知った風な口をきく。
「分かった、ちょっと待て」
素直に応じるあいつに少々気分がよくなった。いったん魚を泳がせ、タイミングを見計らってまた引き寄せる。釣りキチの視線を感じる。釣り子の黄色い声が聞こえる気がした。俺はがに股に腰を落として両手でタモを構える。肉を食って生きているくせに、アブラゼミより大きな生き物を捕獲した記憶がない。水面が弾け、鱗が煌めいた。胸が高鳴る。たかがヘラブナ。されどカジキマグロと格闘しているような気分だった。
煌めく魚影に、俺は今だとタモを振り下ろした。網などアブラゼミを捕まえる以外に使ったことがなかったのだ。タモは釣糸を断つ。竿は跳ね上がる。新太は仰け反る。
「あ、ごめん」
あいつはひっくり返りそうになりつつ、なんとか踏みとどまった。愛想笑いを浮かべる俺。爺さん譲りの細い目が、宇宙人と遭遇したかのように見開かれた。
「下から掬えよっ」
「ごめん、よ」
新太は釣り場で騒げない。あいつはそそくさと釣竿をたたみ、俺たちは釣り場から退場した。
上から叩く奴があるかよ。知らねえもんは知らねえんだよ。知らないったってどっかで見たことくらいあるでしょう。知らねえもんは知らねえんだよ。金魚すくいだって下から掬うでしょう。知らねえもんは知らねえんだよ。虫は上に逃げるから上から押さえ込むの。知らねえもんは知らねえんだよ。魚は下に逃げるから下から掬い上げるの。知らねえもんは知らねえんだよ。
駐車場に戻れば、あいつはやり場のない怒りを飛沫に変えるように、マスクもせずに大声で歌いはじめた。俺は運転席で煙草に火をつけて、リアビューミラーに映る背中に煙を吹きかけた。
陽が傾きはじめ、でんぐり返しでバイバイする頃、思いがけないことが起きた。
「さっき釣り場にいましたよね」
釣り子から声がかかる。
「タモ網のヒトは?」
釣りキチは嫌みったらしい笑みを浮かべた。
「おっさんご指名ぇ」
新太は振り返って声をあげる。若い二人は困ったように両手をふる。根が営業マンなもので、下手に出るのは得意だった。煙草を揉み消して運転席を飛び出すと、タモを握ってがに股で蟹歩き。釣り子が笑えば釣りキチも悪い気はしない。下手に出たからには手ぶらで帰らせるわけにはいかない。新太が唯一のオリジナルソングを披露しはじめる。無難な歌に釣り子は「いい歌」と呟く。あんたの性格がいいのだ。売り込むべきは釣りキチだ。俺は若造の目をまっすぐ捕らえながらタモを振る。
「今、手売りで一〇〇万枚チャレンジ実施中なんですよ。これも何かのご縁だと思って是非一枚」
釣りキチが釣り子に視線を落とせば、小さく微笑む。お一人様お買い上げ。続く、高田渡「魚釣りブルース」に若い男女はポカン。俺だって辛うじて知っていた程度だ。
ワキにゃ酒でも一本抱き抱えて
あの小川まで魚つりに
日頃のウップンをエサにして
糸をたれて一日過ごします
「いいの演ってるじゃない」
釣り名人然とした男が柔和な笑顔でやって来る。めざせ一〇〇万枚の段ボール箱に視線を落として、一枚を拾い上げる。
「魚釣りブルース入ってんの?」
オリジナル一曲しか入っていないとは言いづらい。俺は名人の目をまっすぐ捕らえながらタモを振る。
「今、手売りで一〇〇万枚チャレンジ実施中なんですよ。これも何かのご縁だと思って是非一枚」
「あんときのタモさんか。ありゃ酷かったな」
名人が遠慮なく大声をあげれば、「タモさん」が釣りキチのツボに入ったらしい。笑い声が響き渡ると、帰りがけのファミリーやら老若男女が何かあったのかと集まりはじめる。フォーク、アニソン、歌謡曲と新太のレパートリーは広い。テレビ放映したばかりの「スタンド・バイ・ミー」なんかも持ってくる。ザ・コーデッツ「ロリポップ」を選曲するところが憎い。俺は口の中に指を突っ込んで頬を弾く。気付けば一〇枚を売り捌いていた。
拍手で見送られるなんて高校の卒業式以来だ。俺は三度クラクションを叩いて公園を後にした。
ハイエースとあいつを家まで送り届ければ、爺さんが無言の笑顔で出迎えた。朝からずっと立っていたのではないかと訝る。
俺は約束通り一〇〇〇円をいただいた。帰りがけにプレモルを二缶、小僧には愛のスコール・マンゴー味、思いがけず有機丸大豆醤油まで稼ぎで買えてしまった。その夜は、家族で乾杯をした後、巨大なヘラブナと格闘した話を、両腕を広げながら披露した。
その週は土曜日に駅前広場でライブをするから、日曜日に遠征したいとのことだった。駅前ではさすがにタモ網を振りながら営業活動とはいかない。妻のママ友に見つかりでもしたら家庭に亀裂が入る。
日曜日、たどり着いた先はまた水辺であった。本当は釣りに行きたいために俺を雇ったのではなかろうかと紫煙を吐く。しかし、一〇枚を売り上げた前例があるからして、これが無駄な活動だとは言い切れない。
「ここは湖か?」
「沼って呼ばれてるな」
沼の定義をよく知らないが、底無しのイメージがつきまとう。そして、どう見てもヒトがいない。誰一人いない。釣り人がいないことをよしとして新太はリアゲートを日よけに喉を鳴らす。「魚釣りブルース」に引き寄せられる釣り人もいない。今日は練習のつもりだろうか。
あいつにとって俺はお抱えドライバーかもしれないが、俺にとってはお抱えシンガーとも言える。そう思えば、煙草を吹かしながら鼓膜を震わせるこの時間がとんでもなく贅沢なものにも思えてくる。
あいつは三曲終えると、ギターを片付けながら突飛なことを言い出した。
「ちょっとミミズ掘ってくる」
あたりを見回せばエサが買えそうな店はない。新太はプラカップとスコップを手に沼岸の草むらでしゃがみこんだ。その姿は微笑ましくも、逞しくも感じられる。ウチの小僧を連れてきたら、いい刺激になるかもしれない。
新太がミミズを掘っている脇に、なにやら見慣れないものを発見した。煙草を揉み消して、ハイエースの運転席をおりる。なんだあれは。目を細めて腰を曲げながら歩み寄る。次第にその輪郭がはっきりしてくると、思い浮かべたのは竹中平蔵の顔だった。あと矢ガモ。手に取ることは躊躇い、丸まった新太の背中をつついた。
「おいおい、えらいもんが落ちてるぞ」
あいつは俺の指の先に視線を向ける。
「クロスボウじゃん」
そして、躊躇うことなくなくそいつを拾い上げた。
「クロスボウ?ボウガンじゃなかったっけ?」
「同じ同じ。ボウガンは製品名だよ」
「ウォークマンみたいなもんか」
「セロテープみたいなもんだ」
もう一つくらい気の利いた例をあげてみたいが出てこない。
「なんで、こんなものが落ちてるんだろうな」
「銃刀法の改正があるからじゃねぇの。いつからだっけ。届け出をしないと不法所持になるらしい」
「おまえ、変なことに詳しいよな」
「親父が持ってた。どこで手に入れたか知らんけど。こんなフルサイズのじゃなくって、ピストルクロスボウだったけど。やばい。不法所持で捕まるって騒ぎだして、メルカリで売った」
その名称から小型のクロスボウがあると理解する。それよりあの爺さんとメルカリが結び付かない。
「こんな危なそうなもん、素人が取引できんのか?」
「そん時はまだ閣議決定かなんかのタイミングだったから。別に問題なかったんじゃない。割りといい金になったらしいよ。気まぐれに金くれたから大量のCD-Rに変えてやった」
新太はライフル銃のようにそいつを構え、沼に立つ鷺に向けた。
「スポーツ用かな。こんな立派なやつ初めて見たよ」
「おいおい、撃ったりすんなよ」
あいつはそっと地面に戻した。矢も何本か散らばっていた。
視線を運べばエロ本も落ちている。よっぽどヒトが来ない場所なのだろう。新太は針にミミズを通して糸を垂らした。
CDを売る気なんてさらさら無いようだ。暇を持て余してタモ網を構えても、浮きが揺れる様子はなかった。時折、聞いたこともない怪鳥の声がする。新太が釣糸を垂らしている間中、俺はクロスボウのことが頭を離れなかった。気に入らないのは、時折、竹中平蔵の顔が浮かんでくること。気を紛らすべく新太に問いかける。
「何か釣れんのか?」
「バス釣りで有名な沼なんだけどな」
「ブラックバス?あの外来生物か」
「よく知ってるじゃん」
「ボウガンで射抜くか」
「乱暴だな。元々ニンゲンが持ち込んだんだろう」
魚釣りに縁のない俺に言わせればどっちもどっちだ。唇に針を引っ掛けて釣り上げる娯楽は乱暴でないのか。いくら待ってもクチボソ一匹釣れない。先週のヘラブナだって釣れたわけでないが。沼には魚がなければニンゲンもいない。俺は業を煮やして文句を垂れる。
「CD売る気あんのか?」
新太はプラカップに蠢くミミズを沼へ撒いた。
「帰るか」
あいつは渋々帰りのサービスエリアで夕焼けライブを決行した。結局、CDは一枚も売れなかった。妙な疲れにつつまれた車内、ぼんやりクロスボウのことを考えながらハンドルを握った。
よっぽど気になっていたのだろう。ある日、夢に出た。
俺が驚いたのは今、首を射抜こうとしている新太の引いたクロスボウは、以前私が拾って帰ろうとした見覚えのあるクロスボウなのである。俺はフルサイズクロスボウは使ったことはなく、フルサイズよりはコンパクトなピストルクロスボウを使っていたので、あれは憧れのクロスボウなのだ。(困るなァ、せっかくみつけたフルサイズクロスボウで首などを射抜いてはキタナクなって)と、俺は思ってはいるが、とめようともしないのだ。そうしてトリガーはさーっと引かれて、竹中平蔵の首はスッテンコロコロと音がして、ずーッと向うまで転がっていった。(あのボウガンは、もう、俺は使わないことにしよう、首など飛ばしてしまって、キタナクて、捨てるのは勿体ないから、メルカリで売ってしまおう)と思いながら俺は眺めていた。俺が変だと思うのは、首というものは皮と肉と毛で出来ているのに、スッテンコロコロと金属性の音がして転がるのを俺は変だとも思わないで眺めているのはどうしたことだろう。
目を覚ました時、辺りは闇に包まれていた。ハイエースの荷台。隣で新太は寝息をたてている。昼間から赤玉なんかを飲んだせいで頭が痛い。
同行初日の成功が仇になったか、それ以降、CDの売り上げは伸びず、俺は苛々していた。それにもかかわらず、あいつは早々にライブを終了させて釣糸を垂らすばかり。
薄々感づいてはいたが、路上ライブ以上に、週末、爺さんと釣りに行くことがあいつの楽しみだった。爺さんが免許を返納したタイミングで、暇そうなおっさんを捕まえたわけだ。バディものの映画に感化された俺が、勝手な夢嘽に浸っていたかっだけにも限らず、腹を立てて声を荒らげた。
「一〇〇万枚売る気あんのかよっ」
新太は餌を練りながら平然と答えた。
「ねえよ」
俺は絶句するほかない。地面を蹴ってあいつに背を向ければ目の前が酒屋だった。ひどく悪酔いしたい気分だ。店内に踏み込めば、自分が餓鬼だった頃、親父が昼間から飲んでいた赤玉が目に飛び込んできた。スパークリングなどという小洒落た小瓶もあるではないか。悪酔いにはいい酒だと思われた。あいつの背中に文句を垂れながら一本を空ける。よくよく聞けば平日も仕事なんかしてないというではないか。爺さんの貯金を崩して、年金にすがって、昼間から路上で歌っているという。
苛立ちは収まらず、遂には赤玉の五五〇ミリリットルボトルを呷る。一曲だけのオリジナルソングで一〇〇万枚を目指そうなんて虫のいい話だ。こっちはあの手この手で毎年一〇パーセント成長だ。資本増大からくり人形になって必死に会社にしがみついているんだよ。親の年金で食っている路上音楽家なんて、まったくの糞野郎だ。
あんなに資本増大執着主義を憎んでいたはずなのに、その対極にいるあいつの生き様を否定したくて仕方がない。一〇〇万枚はいつまでに達成するつもりか。そのストラテジーは。そのマイルストーンは。そして、おまえの描く五年後のビジョンはなんなのか。
俺は古びたエンジンのように泣いていた。そして、排煙を吹き上げながら新太の背後へ襲いかかる。釣り場に突き落としてやろう背中を押すが、その身体は想像以上に重かった。振り返ったあいつに腕を捕まれると、俺は簡単に転がされた。
潰れた俺は釣り人たちに運ばれ、ハイエースの荷台に放り込まれた。
「しばらく寝てろ」
新太は随分長いこと歌っていたように思う。こんなおっさんに捕まって哀れに思われたのだろう。同情した釣りキチや釣り子のたちがCDの一枚でも買っていったかもしれない。
目を覚まして夜だったのには参った。妻の顔を思い浮かべて慌ててスマホを取り出す。五件の着信と一本のメッセージ。
あんまり若い子に醜態さらすもんじゃないよ。
彼女は俺の様子を知っていた。新太がSNSで酔いつぶれた俺の写真をアップしていたから。酔っ払い介護なう。
ごめん。詳しくは明日帰ってから話す。
メッセージを送って煙草に火をつける。既読はついたが、いくら待っても返信はいただけなかった。深く息を吸い込んで車内を煙に満たす。
苛々するたびにボウガンのことを思い返す。
もう誰かに拾われてしまったろうか。
そして、ボウガンをと一緒に思い出す顔がある。ついでに矢ガモも。
俺が竹中平蔵にモノを申したところで、はい、論破。どうせ言葉を封じられて項垂れるだろう。何せ世論は間違っている。
世論は間違ってますよ。世論はしょっちゅう間違っている。なんでやるか、やらないか、あんな議論するか、私は分からない。
煙草のフィルターに火が迫る。鈍い身体を運転席まで運んで、そいつを灰皿で揉み消した。気まぐれにキーを回してランプを焚く。リアビューミラーに寝ぼけ眼の新太が映った。
「なに、帰るのか?」
「ごめん。起こしたか」
「そりゃ起きるだろ。酒抜けたのか?」
「多分な。なぁ、あの沼まで案内できるか?」
新太は首を傾げる。あいつにとっては沼なんていくらでもある。俺にとって沼はあそこ以外にない。
「ボウガンだよ」
あいつは表情を固くする。
「クロスボウが一般名だったっけ?」
「ピアニカみたいなもんさ」
「は?」
あいつは何処か得意げな表情を浮かべ、マップの検索をはじめた。
「メルカリで売る気だろう」
「ああ、そうだ。この世は金が全てだ」
「今日、五枚売れたぞ」
「あと何枚だ?」
「九十九万九千…」と、あいつは指を折った。