二人羽織ンピズム
初の一〇秒台まであと一歩、五輪候補とも言われていた妻が不慮の事故で両足を切断した。それでもタンクローリーから上半身だけでも逃れることができたのは鍛練の賜物だろう。コーチは落胆し、スポンサーは離れた。思いがけず一年延期となった大会だが、その間に足が生えてくるわけでなし。そもそもやるのかやらないのか。頬杖を付きながらテレビ報道を見守る妻。事故当初は大きく報道されもしたが、メディアはすぐに飽きる。非日常に追われる市民もすぐに忘れた。女子短距離はこの国であまりメジャーなスポーツではなかったから。
「走るか」
俺は妻を見かねて背負い上げると、近所の土手を走った。無駄な肉のない彼女の体は軽い。腕を振るだけでも気晴らしになるのではないか。
「腕を振れ、もっと速く」
陸上のことなど何も知らないくせに偉そうなことを言う。それでも夫婦だ。彼女は俺の気持ちを察して腕を振る。懸命に腕を振る。すると、こっちも彼女のリズムに合わせないと転倒しそうで懸命に足を回した。彼女も俺に発破をかけるようになった。
「地面を蹴れ、もっと強く」
「もう無理」
土手の斜面に妻を寝かせて、自分も仰向けに転がった。緊急事態の最中、空の下にいるニンゲンは少ない。俺はなにか声をかけようと言葉を探すが、息が切れて言葉がでない。
「飲み物買ってきなよ」
「そうだな」
なんとか立ち上がり、妻を転がしたまま自販機を探した。ポカエリアスのペットボトルを一気飲み、もう一本を購入。そいつを持って土手に戻れば、彼女は薄ら青い空を眺めながら懸命に腕を振っていた。空を走る彼女を思い浮かべながら、しばらくその様子を眺めた。
妻の頬にポカエリアスのペットボトルをあてる。可愛い声を上げる歳でもない。彼女は無言でそれを手に取ると、一口含んでキャップを閉めた。
「走るか」
俺は再び彼女を背負い上げる。五分も走る体力は残っていなかった。俺は息を切らせながら土手を歩いた。
「ポカエリくれ」
背中にはりついた彼女は二人羽織でもするように、俺の前でキャップを開けると飲み口を口へ運んだ。それは勢いよく俺の鼻を突く。
「いてぇよ」
彼女が笑い、肩を揺らす心地よい振動が背中に伝わった。わざとやっているんだろう。笑えるんならいくらでもやってくれ。鼻でも目玉でも突いてくれ。飲み口がそっと唇にあたる。そこから俺は首を上げ、彼女はそれに合わせてペットボトルを傾けなければならない。それなのに、いきなり垂直にペットボトルを逆さにするやつがあるか。俺は前屈みになってむせ返る。彼女はペットボトルを投げ捨て、俺の膝に手をついた。
「大丈夫?」
そう言いながらも肩を揺らす振動が背中に伝わる。笑ってんじゃねぇかよ。鼻からポカエリが溢れひどい有り様だ。彼女は俺の首にかけられたタオルを手に取り、口もとをぬぐう。気が利くじゃねぇかよ。それでも背中の振動は消えない。心地よい振動が消えないよう俺は大袈裟に咳をした。
それから妻を背負ってジョギングすることが日課となった。終盤、腕を力強く振りはじめるとそれに合わせて懸命に地面を蹴る。息を切らせた後でも、二人羽織のポカエリアスは笑えた。
「私たち速いよ」
それは俺も感じていたところだった。日増しに彼女は腕の強さを取り戻し、かつてラグビーで鍛えた俺の脚力も中々のものだった。二人羽織一〇〇メートルなんて競技があれば、俺たちは世界的なアスリートになれるのではないか。
「もう一度、トラックで走りたい」
そう言い出した妻は、俺に背負われたままポケットからスマホを取り出す。そして、何やら番号をタップすると俺の耳にあてた。
「なに?そこは自分で話せよ」
「そうか」
妻は自分の耳にスマホをあてた。
「もう一度、トラックで走りたい」
相手はどうやら以前のコーチらしい。
「脚?脚なら心配ない」
そして、彼女は再び俺の耳にスマホをあてた。
「はじめまして。脚です」
かつては五輪候補とも言われた妻だ。不慮の事故に見舞われた彼女をコーチは無碍にできない。それでも新しいスターはすぐに生まれる。選手たちの邪魔にならないよう、俺たちは直線レーンを避けて円形コースで汗を流した。ポカエリアスはそこでも笑えた。
「羽織里さんですよね」
「あら、お久しぶり」
突然、彼女は地面に擦りつけそうな勢いで頭を下げた。
「申し訳ありません」
俺は状況が読み込めず小さく首を垂らす。妻は俺の肩で頬杖をつくと、もう一方の手でポカエリアスのボトルを振った。軟体な彼女はボトルを見るなり何度も頭を下げる。
「ありがとうございます」
顔を上げるその目には涙が滲んでいた。ポロシャツにはポカエリアスのロゴ。どうやらかつてのスポンサーさんのようだ。
「しかたないよ。別にあなたのせいじゃないし」
「でも」
「選手でもないニンゲンにお金出しても仕方ないでしょう」
「ポカエリ、味がうまいよね」
俺が口を挟めば、妻は左の拳を俺の脇腹にあて、ペットボトルを口にあてがう。そして、俺は喉仏を誇るようにそいつを一気に飲み干した。ポカエリ娘は「わぁ」なんて声を上げて名人芸でも眺めるように何度も拍手をした。
気づけば、俺たちはCMに起用されるようになっていた。トラックを走る俺たちがドローンで全方向から映し出される。妻の腕、俺の脚。そして、二人羽織でペットボトルを一気に呷る。
資金が手に入れば環境も変わり、記録は伸びる。女子一〇〇メートル王者の大麻陽性が騒がれる頃、俺たちは女子一〇〇メートル選考基準に迫る記録を出すようになっていた。注目があつまればSNSという世論が黙っていない。女子なのか。男子なのか。オリンピックなのか。パラリンピックなのか。
オリンピズムとは「スポーツを通して心身を向上させ、文化・国籍などさまざまな違いを乗り越え、友情、連帯感、フェアプレーの精神をもって、平和でよりよい世界の実現に貢献すること」です。
五輪中止論者は、俺たちをダイバーシティの権化かのように持ち上げ、選考会に立たせないJOCをさらにバッシングした。聖火ランナーにならないかという声もかかるが、そこで妥協してほしいという提案なのだろう。
「スケジュールの都合で辞退させていただきました」
俺はメディアに報告する。言ってみたかっただけだ。妻はスポンサーの大型車両と一緒に馬鹿騒ぎするのはごめんだとSNSに垂れ流す。契約は切られた。
そもそも世間が騒ぐほどオリンピックに出たいとは思っていなかった。祭りは終わり、俺たちはまた土手に戻った。ペットボトルが鼻にあたれば、背中が心地よく震えた。