俺には土地がない
嗚呼また通勤。松葉杖の少年がケンケンで階段を上っていった。先発、次発、次々発、背中がお行儀よく静かに並んでいるホーム。ランドセルを背負った制服の少女が鈍行の車内に立つ。母親にずっと手を振っている。ドアが閉まるまでずっとだよ。確かあれはオーストラリア人だった。前職のプロマネが日本にやって来た時「ニホンのデンシャはミンナシズカでイイね」と言った。俺の耳は殆んど英語なんて受け付けない。だけど訛りのきつい英語でそんなことを聞かされた記憶がある。俺はへらへら頷いた。戸袋が好きだ。このポジションに寄りかかって本を開く。この夏というのは秋に使ってもいい言葉かしら。年内ならありだよな。この夏、鉢植えのアボカドを枯らしてしまったことを悔やんでいる。毎年が未曾有の暑さだ。びっしりと根が生えていて、狭かったろうな、苦しかったろうな。そんなことを思い出したのは図書館で借りた本のせいだ。メキシコ人の掌編集に「盆栽」という一編が収載されていた。原題はなんなんだ。メキシコの言語ってメキシ語?グラスに発根させるいい感じのアボカドってたまに見るじゃない。でかい種に爪楊枝を刺してグラスで発根させたんだよ。そしたら芽も出るじゃない。観葉植物の腐葉土買って鉢に植え替えるじゃない。あいつはぐんぐん育つ。どこか地面に植えてしまおうかとも考えた。マンション住まいだから俺に与えられた土地はない。ひどいもんだ。地面は区切られ、俺に与えられた土地はこの世に存在しない。勝手に植えるわけにもいかんよな。すごい土壌の養分を吸うと聞いたことがある。緑道なんかに植えてわまりの植物たちに影響したらまずいなって。もう果物買ったら種撒くのやめるよ絶対。俺には土地がない。「もう恋なんてしない」がクラスで流行ってると愛息が言っていた。あいつには随分と古い歌だけど、なんでもかんでもユーチューブだ。実際にはもう恋なんてしないなんて言わないよ絶対が流行っているのだろう。そんなことだから寝てもいないのに乗り過ごす。嗚呼。